西岡力(東京基督教大学教授)

水面下の衝突


 息をのむような激しい戦いが日朝間で今展開されている。昨年10月、日本代表が平壌を訪問した後、膠着状態が続いているように見えるが、その実態はかなり違うということを緊急報告する。

 「安倍と金正恩のキッサウムだ」。複数の北朝鮮関係者が私に現在の日朝協議について語った。「キッサウム」とは、「キ=気」の戦い、すなわち、お互いの要求が衝突するにらみ合い、気合いと気合いがぶつかり合う状態をさしている。

 昨年末から北朝鮮は水面下の接触で、1回目の調査報告を行いたいと伝えてきた。しかし、その中身が拉致被害者に関するものではなく、戦後すぐ亡くなった日本人の墓地と日本人妻などに関するものだと知った安倍晋三首相が「拉致最優先、認定被害者が必ず入っていなければならない」として受け取りを拒否している。この状態を指して「キッサウム」と表現しているのだ。

 この戦いが3月末から4月初め、表舞台で火花をちらした。3月26日、神奈川県警、京都府警、島根県警、山口県警が総連の最高幹部、許宗万議長、南昇祐副議長らの自宅を松茸(マツタケ)の不正輸入容疑で家宅捜索を行った。昨年5月、許議長の次男の会社などを家宅捜索して確保した証拠を確認整理した結果、行われた捜索だ。それに対して、4月2日、北朝鮮は「このような状態では朝日政府間対話もできなくなっている」と北京の大使館ルートで日本に通知してきた。

 実は、その翌日、家族会と安倍首相が1年ぶりに面会することになっていた。当日の各紙朝刊が日朝協議中断かと大きく報じる中、安倍首相は面会の冒頭、テレビカメラや記者がいる前で北朝鮮の前日の通報を「全く受けいれられない」と切り捨てた上で、「大切なのは拉致問題を解決しなければ、北朝鮮が未来を描いていくことは困難だと認識させることだ」と強調した。
北朝鮮による拉致被害者の家族会(右側)と面会し、挨拶する安倍晋三首相(左から2人目)=4月3日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影)
 私はその面会の席に同席した。安倍首相はこの発言をするとき原稿を読んでいた。つまり、前日の北朝鮮の脅しを受けて、意図的にこの発言を準備したのだ。「主体思想」の国である北朝鮮としては、自国の未来を安倍首相に描くことが困難だとされることに反発しなければならないはずだ。しかし、その後、北朝鮮は安倍首相の発言に対して全く反応を見せていない。

非認定被害者数人が浮上も安倍首相は拒否


 北朝鮮関係者によると、金正恩はまず、拉致をのぞく調査結果の報告を行い、日本人妻などを帰国させ、日本の世論をなだめて、取れるだけのものをとろうとしているという。

 昨年の6月頃、国家保衛部は北朝鮮全域に住む日本人に対する調査を行った。そのとき、本人に面談して帰国希望があるか調査したが、大多数の日本人妻らは本心を話すと処刑されるのではないかと恐れて「帰りたくない」と答えたと聞く。

 ところが、今年3月に入り、再度調査が行われた。清津に住む日本人妻のところに再び保衛部がやってきて、金正恩は寛大な心の持ち主だから帰国したいと言えば本当に帰国が許されると説得したと聞いた。その結果、拉致被害者以外の北朝鮮在住日本人全体とその中で帰国を希望する者のリストができている。私が保衛部に近いある筋から聞いたところによると、その中には特殊機関で働いたことがない日本人拉致被害者が数名入っているともいう。

 しかし、安倍首相は「横田めぐみさんたち認定被害者が入っていないリストは受け取らない」と強い姿勢を崩していない。それに対して北朝鮮では、「安倍が突然ハードルを上げてきた、話が違う」と当惑し、その理由について、「日本が北朝鮮に接近することを嫌う米国が牽制しているのではないか」、あるいは「間に入った担当者が虚偽報告をしたのか」などと推測していると聞いた。

 北朝鮮では日本との接触は必ず複数のラインで点検監視されているから、虚偽報告される余地がない。したがって、日本側の外務省担当者が疑われていることになる。

 一方、日本の中でも、安倍首相が当初から強調していた拉致問題最優先という方針を外務省が正確に北朝鮮側に伝達していたのか疑う声が出ている。本誌でも私は昨年繰り返し、その点を指摘してきた(4月発売の拙著『横田めぐみさんたちを取り戻すのは今しかない』PHP研究所で詳論したので参照して欲しい)。

 昨年3月から始まった公式局長級協議には外務省以外に拉致対策本部や警察からも参加者を送っているので、おかしな話はないはずだが、3月以前に水面下で行われていた非公式接触は完全に外務省単独でなされた。2月のモンゴルでの横田夫妻とめぐみさんの娘ウンギョンさん一家との面会は、家族を担当する拉致対策本部も直前まで知らなかった。

 今年に入り、1月末、2月末、3月末などに持たれたといわれている非公式接触を受けて、外務省は安倍首相に、昨年のストックホルム合意があるのだから、拉致以外の報告を先に受け取る方がよいのではないかと提言しているという。

 しかし、安倍首相の拉致最優先という立場にぶれはない。4月3日につづき、14日にも首相は飯塚繁雄家族会代表、横田滋・早紀江夫妻に面会した。自民党総裁の立場で、自民党本部で行われた拉致をテーマにした演劇公演であつめた寄付を伝達するという名目だった。そして、26日には訪米の特別機を空港に待機させている中で、家族会・救う会・拉致議連などが主催する国民大集会にも出席して、被害者救出への決意を語る予定だ。金正恩に対して拉致問題最優先、特に認定被害者を含む報告をせよと圧迫しているのだ。

 金正恩は先述の通り、まず拉致以外の報告で取れるだけのものをとろうとしているのだが、安倍首相の強い姿勢に対して、協議打ち切りを宣言できず、守勢に回っている。また、やはり昨年、本誌などで私が繰り返し警告してきた生存者を殺害して死亡の証拠を作るというテロ計画は、それをすると日本の世論が激高して日朝関係は最悪になるという反対論が北の政権内部で多数派となり、金正恩もその方向で考えているらしいと聞いた。現時点では心理戦、情報戦で殺害を抑止できた。

 金正恩が守勢であることは、4月2日の通知の表現にもよく表れている。それほど長いものではないので、朝鮮中央通信の全文を訳しておく。(通知に関する報道は日本語版がない。また、労働新聞や平壌放送など国内で接することが出来る媒体では一切報じられていない。その点も安倍批判の水位を調整している表れと言える)。

 〈共和国に対する厳重な政治的挑発と国家主権侵害行為と関連した立場を日本側に通知(平壌発4月2日発朝鮮中央通信)
 最近、我が共和国に対する日本の厳重な政治的挑発と国家主権侵害行為が度を超えていることと関連して2日外交経路を通じて日本側に我々の立場を明らかにした通知文を送った。
 通知文で、我々は朝日ストックホルム合意を誠実に履行していることに言及したあと、日本が拉致問題を双方の間で解決することにした合意を破って国連人権舞台で国際化してその中心問題として浮上させたことにより自らが信頼できなくさせたと指摘した。
 最近、日本警察が不法無道に我が共和国の最高人民会議代議員である総連幹部の家を強制捜索するという前代未聞の国家主権侵害行為を敢行したことに対して強力に糾弾し、今回の事件を日本政府が徹底的に解明して謝罪することを要求した。
 このような状況では朝日政府間対話もできなくなっていると明らかにした

 ここでまず目に付くのが、傍線部分の微妙な表現だ。受動態を使い、自分たちは対話を続けたいというニュアンスを出し、その上で「できなくなった」と書かずに「できなくなっている」と現在の状態を示す表現を使っている。これ以上、総連幹部を取り締まらないで欲しい、国連で人権問題を持ち出さないで欲しいという悲鳴にも聞こえる。

 その上、通知文全文を報じないから誰が誰に通知したのか分からない。一体誰の名前で日本に通知したのかを書いていない。主語がないのだ。国防委員会や外務省が主語なら、ストックホルム合意を破棄するという脅しの程度が高くなるが、誰が通知したのかわからないから脅しの程度も低くなる。