鹿間孝一(産経新聞特別記者兼論説委員)

 大阪市を廃止して5つの特別区に再編するか、それとも現状のまま大阪市を残すか。注目の住民投票まであと1週間余りとなった。

 言い方を変えると、橋下徹大阪市長が提唱する大阪都構想の是非を問う投票である。

 賛否は拮抗(きっこう)している。

 「迷ったら、一歩前に踏み出そう」

 「迷った時こそ、立ち止まって考えよう」

 賛成、反対両派の呼びかけに、大阪市民はどのような選択をするのか。

 ヒントとして、大阪の成り立ちを振り返ってみたい。

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 焦点の一つが現行の24区から5つの特別区への再編である。

 江戸時代の大坂は3つの区しかなかった。

 元禄16(1703)年の段階で人口約35万人という当時としては大都市だった大坂を直轄領としていた徳川幕府は、この町を北組、南組、天満組の3つに分けた。「大坂三郷」と呼ばれた。

 本町通りを境に、北組と南組、大川以北が天満組である。

 北組には豪商の大店や蔵屋敷があり、南組は島之内、道頓堀の歓楽街、芝居町がある。天満組は新地開発などで発展する地域である。それぞれの区の性格がはっきりしていた。
大阪市を廃止して5つの特別区に再編するか、それとも現状のまま大阪市を残すか…。賛成、反対両派の主張が載せられている住民投票の投票公報

 自治的庁舎として惣会所が設けられ、各組から長にあたる惣年寄が選出された。ただし、選挙によるのではなく、資産があり、町人の間で人望のある者が選ばれた。

 幕府は行政機関として奉行所を置いていたが、「天下の台所」と呼ばれた大坂は、町人が橋を寄贈し、金を出し合って学校をつくり…と、治安以外はなんでも自分たちの手でやるというのが、昔からの気風であった。

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 明治になって大坂三郷は東西南北の4大組に改編され、さらに区になった。それぞれ区議会を持ち、自治の権限がある、いわば都構想の特別区のモデルのような存在だった。

 その後は市制施行によって、単なる行政区となり、市域の拡張で区の数も増え続けた。

 もう一つ、エポックとなったのが「大大阪」の時代である。

 大正14(1925)年、大阪市は市域拡張で隣接する東成、西成の両郡を編入した。人口は200万人を超え、面積・人口ともに東京市を抜いて日本一の大都市になった。

 明治以来、首都より大きな都市が存在したのは初めてで、「大(だい)大阪」「グレーター大阪」と呼ばれた。当時の世界でもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、シカゴに続く第6位だった。

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 当時の大阪市長は関一(せき・はじめ)(1873~1935年)だった。

 都市計画論が専門の学者だった関は、理論を大阪市で実践した。

 御堂筋を建設し、その下に地下鉄御堂筋線を通した。大阪港を近代的に改造し、公営住宅や公設市場を整備した。学問の実用化をめざし大阪商科大学(現在の大阪市立大学)を開設した。

 現在に残る都市基盤のあらかたは関市長の時代に造られた。

 一方、大阪城天守閣の再建は市民による150万円もの寄付によって賄われた。

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 大阪が輝いていた時代を振り返ると、二つの要素が見えてくる。

 なにごとも町人(市民)の手でという官に頼まずの伝統と、有能なリーダーの存在である。

 住民投票で大阪都構想が支持されたとしても、成功するかどうか。言い換えれば、大阪に輝く未来があるかどうかは、その二つにかかっている。

 しかま・こういち 
産経新聞特別記者兼論説委員(平成25年9月まで大阪特派員を兼務)。北海道生まれの大阪人。生涯一記者を自任していたが、なぜか社命によりサンケイリビング新聞社、日本工業新聞社で経営にタッチして、産経新聞に復帰した。記者歴30余年のうち大半が社会部遊軍。これといった専門分野はないが、その分、広く浅く、何にでも興味を持つ。とくに阪神タイガースとゴルフが好き。夕刊一面コラム「湊町365」(「産経ニュースWEST」では「浪速風」)を担当。共著に「新聞記者 司馬遼太郎」「20世紀かく語りき」「ブランドはなぜ墜ちたか」「なにが幼い命を奪ったのか 池田小児童殺傷事件」など。司馬遼太郎に憧れるも、いうまでもなく遼に及ばず。