井上和彦(ジャーナリスト)

かつての敵兵との再会を祝す不死身の英雄


 「いまも、なぜ私が生き残れたかということが不思議でなりません。このペリリューは私にとって第2の故郷のようなところです」

 空と海を真っ赤に染め、いままさに水平線に沈まんとするペリリューの夕陽を眺めながら、御年94歳の土田喜代一氏は感慨深げにそう語った。

「西太平洋戦没者の碑」の前で、天皇、皇后両陛下のご到着を待つ土田喜代一さん(右)=4月9日、パラオ・ペリリュー島(共同)
 土田喜代一・元海軍上等水兵――大東亜戦争末期のパラオ諸島ペリリュー島攻防戦(昭和19年9月15日――11月24日)で米軍と死闘を繰り広げ、守備隊が玉砕した後も生き残った34人の兵士で米軍に遊撃戦を挑み続けた、まさに不死見の英雄である。米軍の停戦要請を受け入れて日本に生還したのは、昭和20年8月の停戦から1年8カ月が経った22年4月のことだった。

 「この一戦に負けるわけにはいかない! 負ければ祖国が危ない! だから戦い続ける!」

 そんな至純の愛国心と敢闘精神で戦い抜いた土田さんから筆者に電話があったのは、平成26年春ごろのことだ。

 「井上さん、私は今回が最後だと思います。どうか一緒に来ていただけないだろうか…」

 ペリリュー戦70周年に這ってでも参加するという英雄の姿を見届けるべく、筆者もパラオに飛んだ。

 そして迎えた9月15日、米軍上陸から70年目のその日、ペリリュー小学校で執り行われた“Joint Battle of Peleliu 70th Anniversary Ceremony”(ペリリュー戦70周年日米合同記念式典)で、土田氏は、かつての敵兵だった元海兵隊員ウイリアム・ダーリング氏と対面した。

 2人は軍人らしく挙手の礼を交わした後、互いの武勇を称えて抱き合った。参列者は2人に万雷の拍手を送り、平和裏の・再会・を祝福した。土田氏とダーリング氏は何度も堅い握手を交わし、そして来場者席に向き直すと唇を固く結んで再び挙手の礼で祝福の拍手に応えたのだった。

 あまりにも感動的なシーンだった。

*         *

 激戦の島ペリリュー――。パラオ共和国に属するこの島は、同国最大の都市コロール島から南へ約40キロの海上に浮かぶ南北10キロ、東西3キロ、面積にして20平方キロの小さな島である。

 この島には、500人ほどの人々が暮らしているが、信号機や横断歩道もなく、通信インフラは未整備で、電力事情も貧弱である。観光開発も進んでいない。

 しかし、そのために島内には、日本軍の九五式軽戦車をはじめ、日本軍守備隊のトーチカや砲爆撃で破壊された日本海軍の司令部庁舎など、まるで昭和19年9月から時間が止まったかのようにそのまま放置されている。

 他にも撃墜された米海軍のアベンジャー雷撃機やグラマンF6Fヘルキャット戦闘機がジャングルの中で無残な姿をさらしている。道路脇の芋畑には零戦もある。山中には、地中に仕掛けられた水中機雷で底部をぶち抜かれたM4シャーマン戦車が横転したまま遺棄されている。

 日本軍主部隊が最後まで奮戦した大山山中には、いまでも複廓陣地の中に無数の遺骨が残されており、その数は5000柱に上るものとみられている。

 かつて筆者もこの島の遺骨収集団に参加したことがある。

 破壊された速射砲の傍に、あるいは戦闘壕の中で草むす屍となった日本軍将兵は、御遺骨ではなく“御遺体”としか呼ぶことができなかった。3人の兵士が並んで白骨化している複廓陣地もあった。うち1人は「宮田」と記したスコップを墓標にしており身元も判明できた。

 ある壕で、鉄兜を被ったまま息絶えた兵士のご遺体を目の当たりにした瞬間、私は言葉が出てこなくなり、涙がとめどなく頬を流れ落ちた。そこはまぎれもなく、いまだ終わらぬ“大東亜戦争”の戦場だった。

 平成26年9月、安倍政権は、ガダルカナル島で収骨された戦没者の御遺骨を初めて海上自衛隊の練習艦隊で帰還させた。どうかペリリューでも同様の御遺骨帰還事業を進めていただきたい。