作家の石田衣良氏が朝日新聞紙上で、百田直樹氏の『永遠の0』、有川浩氏の『空飛ぶ広報室』、福田和代氏の『碧空(あおぞら)のカノン』などの小説を「右傾エンタメ」として総称してから、しばしばこの言葉を目にするようになった。特に『永遠の0』はその筆頭にあげられることがある。例えば最近出た笠井潔氏と藤田直哉氏の共著『文化亡国論』では、『永遠の0』は百田氏の思想的立場が全面にでた「右傾化」作品として挙げられている。

 ただ笠井氏らは「右傾化」そのものよりも、大衆が持っていた従来の戦争のイメージが、それらの作品を読むことで無意識のうちに上書きされてしまい、「軽い戦争」のようなものに想像力が向かうことを警戒している。そしてこの「右傾化エンタメ」を読んで、「軽い戦争」気分に傾斜しやすいのは、笠井氏によれば日本が先の大戦で(沖縄以外)「本土決戦」しなかった、つまり「徹底的に負けなかった」ことに原因があるという。実はこれに類した主張はかなり多い。

 例えば、古谷経衡氏は著作『クールジャパンの嘘』の中で、(沖縄戦はあったものの)本土決戦がないことが米国文化の受容に決定的な役割を果たしたことを指摘している。つまり面と向かって殺し合うことがなかったため、多くの日本人にとってアメリカとの戦争は一種の「天災」とでもいうべき見方になってしまった。そのためアメリカ文化の受容に心理的な抵抗がほとんどなかった、と古谷氏は指摘している。また村上龍も浅田彰や坂本龍一との対談の中で笠井氏や古谷氏らと同じ主張を展開していた(『EV.Cafe 超進化論』収録)。笠井氏らと古谷氏では論点がずれてはいるものの、「本土決戦」がなかったことが戦後の日本文化の受容のあり方に決定的だったとすることでは同じである。これを「本土決戦なき想像力」とでも名付けたい。

 古谷氏の指摘は、さらに占領期の日本におけるアメリカ文化や価値観の流行が、占領軍の見えざる検閲や誘導の結果である、としている点でユニークである。つまりソフトパワー(文化戦略)の背後には、米国の圧倒的なハードパワー(軍事)の影響力が常に存在していた。この古谷氏の着眼点は興味深いものである。

 だが、「本土決戦なき想像力」には別な視点もあるのではないか? ここで少し、古谷氏や笠井氏らの論点に自分なりに挑んでみたい。

 一例だが、ドイツのように敵国兵士と面とむかって本土決戦をしても、(かっての敵国)文化の受容にはあまり支障をきたしてはいない。敗戦後の混乱期を抜けて、1950年代終わりから60年代初めにかけて西ドイツではジャズやロックン・ロール、ハワイアンなどがブームとなった。その中心的な役割を担ったのが、西ドイツ最初の「女性アイドル」といわれるコニー・フロベスだ。彼女は西ドイツ版の美空ひばりともいうべき存在で、ひばりが敗戦後に子役として天才的な歌声でブレイクしたのと同じように、コニーもまた8歳で最初のデビュー曲が大ヒットした。コニーは映画の中で軽快なダンスを踊りながら、米国で流行していたジャズ、ロックン・ロール、そしてハワイアンなどをドイツ語の歌詞で歌った。コニーは国民的なアイドルとしていまでもドイツ国民の中で語られている。

 興味深いのだが、60年代後半から70年代にかけてのハード・ロックやパンク・ロックのブームでは、ドイツ語の歌詞ではなく、英語の歌詞をロック風の曲につけるのが西ドイツでは一般的になった。ドイツ語はロックに合わない、というのが「通説」だったらしい。しかし占領の記憶がいまだ残る時代(西ドイツの主権回復は55年)に、コニーが歌ったのは、ドイツ語の歌詞に米国でブームだったジャンルの音をつけたものだった。コニー以後も(西)ドイツでは、米国のポピュラー音楽を積極的に吸収しブームと化していった。

インタビューに応じる歌手の南沙織=1971年7月23日、日比谷公園
 日本ではどうだろうか? 例えば南沙織。彼女の出身地である沖縄は米国との激戦地であり、いまもその記憶は生々しい。南沙織は返還直前の沖縄から来た“日本の最初のアイドル”だった。

 中森明夫氏は、論説「敗戦後アイドル論」の中で、この返還前であったにもかかわらず、「日本のアイドル」と称された、「南沙織」という虚構性(=アイドル性)に注目している。中森氏によれば、南沙織には「アメリカの影」が刻印されている。南本人は米軍基地文化の申し子であった。具体的にいえば、彼女の母親(沖縄出身の日本人)と再婚したのは基地で働くフィリピン人だった。そのため南沙織は基地で流れる米国音楽の洗礼をうけている。ビートルズ、ジャクソン・ファイブらが大好きであった。だが、他方で南沙織における米国基地文化の影響は、彼女をとりまく大人たちの事情で長く封印された。だが、南自身が決戦の場になった沖縄で、ほとんどわだかまりなく米国音楽を受容してきたことは、「本土決戦なき想像力」のこれもまた重要な例外ではないだろうか?

 さて今日の「右傾化エンタメ」は、笠井氏らのいうように「本土決戦なき想像力」ゆえに、「軽い戦争」というイメージを大衆に定着させてしまうのだろうか? いまもいくつかの事例で指摘したように、私には「本土決戦なき想像力」仮説自体がまだ十分に検証されているようには思えない。

 むしろ「右傾化エンタメ」よりも、大衆が戦争に対して持つイメージは、「エンタメ」のような「現実」そのものによって更新されているように思えてならない。とくに湾岸戦争以来、テレビやネットなどで配信されている戦争や紛争の膨大な映像記録、それを見ることが日常化し、一部では「娯楽」とさえいえる状況にまで陥った環境そのものに、「軽い戦争」への傾斜を目視できるように思える。この点はさらに検討を加えなければならないだろう。