誕生以来「テレビは低俗」


 テレビゲーム、インターネット、携帯電話やスマートフォンが急速に普及してゆく中で、次第に接触率を低下させていったテレビが、その情報源、あるいはエンターテインメント装置としての存在価値が見出されづらくなっている。必ずしも多いわけではない若者達の資金の大部分が携帯電話や通信費に多くが消費される。

 それに加えて、近年、テレビの「質的低下」を嘆いたり批判したり、そこから「マスゴミ」と断定するような論調も多い。これは、テレビのクオリティ劣化こそが、視聴者離れを加速させているという論理であるが、筆者には、この論調はあまり的を得ていないように感じる。

 テレビを低俗なメディアと断じた大宅壮一による流行語「一億総白痴化」が生まれたのは、1957年2月のことだ。日本でのテレビ放送の開始が1953年のことであるから、テレビは誕生以来、低俗なメディアと言われ続けていることになる。

 近年、「テレビの質的低下」がいくらさけばれようが、そもそも、スタートから低俗という認識だったのである(映画との比較を前提とした「質」の優劣なのだろうが)。

 「テレビは低俗」「マスゴミ」と言われても、誕生から現在まで言われ続けていることと考えれば、いまさらの「マスゴミ」論は注目すべき指摘ではないだろう。

 むしろ、そんなテレビであっても、インターネット上に氾濫する無数の動画や映像と比べてみれば、それが圧倒的に高いクオリティを持っていることに気づかされる。

 テレビは低俗かもしれないが、インターネットの世界は、それ以上に「低俗」な世界が広がっている。「低俗」という言葉に語弊があるならば「最低限の質が保証されていない世界」と言い換えることができるかもしれない。

「クオリティ」がテレビ離れを誘発した


 テレビの質が低下したと言われる今日でも、まだまだテレビのクオリティは高い。見方によってその評価・判断は別れることは承知の上でも、テレビは十分にクオリティメディアであると言えるだろう。

 しかし、そんな「クオリティ」こそがテレビ離れを誘発している最大の原因となっているように思う。

 まず何よりも、テレビは「時間と空間(=放送時間とテレビが置かれた部屋)」を拘束する装置である。しかし、現在の若者たちを見ていると、「見たいテレビ番組をいち早く見るために、放送時間にテレビの前に座ってスタートを待つ」ということはない。

 もちろん、録画という方法に依存している場合もあるが、それができていなくても、どこかしらで見ることはできる。何より、例え見れなくても他に自分の娯楽を補完するものはいくらでもある。つまり、テレビの受像機と放送時間に何ら優位性はなくなっているのだ。

 その一方で、良質な内容や高いクオリティで作られたテレビ番組には、視聴者を引きつける魅力があり、そこには、大きな力がある、という作り手の一方的な「願い」とも「思い込み」とも言える感覚があるように思う。

 ただ、現実は違う。

 クオリティが追求されてたものが若者達の視聴対象になるわけではない。高い質のテレビ番組であったとしても、多くの若者が、時間と空間の拘束を受けてまで、テレビを見るという選択はしないというのが実態だ。質と選択が無関係な時代になっているのである。

 それに対し、ゴミ屋敷のようなワンルームアパートで毎日、何をするわけでもなくコンビニ弁当の食事風景や雑談をネット動画で生中継しているような動画が、万単位の視聴者を集めている現実がある。

 なまじっかのテレビ番組よりもはるかに集金力や訴求力がある素人による素人コンテンツが存在しているのだ。巨大な予算をかけたテレビ番組が、事実上、そういった素人コンテンツに競り負けている現実が確実に存在している。

 高画質・高音質の映像をお茶の間の大画面で観るよりも、「劣悪なネット動画の画質・音質」であっても「好きな時、好きな場所」で、スマホの狭小画面で視聴することを選択するのだ。

 そういったクオリティでもなんら不満を持たないぐらいに、若者達のコンテンツに対する「質」への感覚は変化している。それがメディアへの接触スタイルの変化の根幹にあるように思う。

 現在の若者達は、クオリティよりも、自分たちのライフスタイルに重きを置いた選択をしているにすぎない。よって、社会が判断や評価の基準にしてしまいがちが「メディアの質(クオリティ・オブ・メディア)」が、若者層にとっては、ほとんどなんの意味を持っていない、というのが現実なのだろう。

猶予なきテレビの未来


 皮肉なことに、若者に関して言えば、テレビ番組の質的な改善が視聴者回復にはつながらないように思う。もちろん、テレビ局や番組制作における意思決定層が、「テレビ時代を満喫してきた中高年層」であるということも要因の一つにはあるだろう。

 そうなると、テレビはこのまま無限にそのクオリティを落とし、低俗さを加速させてゆくことでしか生き残れなくなってしまうのだろうか?

 しかし、少なくとも現段階では放送法に縛られた許認可業であるテレビ放送が、無限の質的低下や影響力の衰退を加速させることはないだろう。守られた「下限」はあるはずだから、影響力を復活させる猶予も可能性もはまだ十分にあるように思う。

 それでもあと数年、あるいは10年程度のスパンで、若者層あるいはその予備軍である小中学生たちが若者になり、やがて大人へとなってゆく。完全にテレビに対する信仰心がなくなっている世代だ。もちろん、そういったライフスタイルの世代の増加に合わせて、メディアに接触するためのデバイスや環境も今からでは想像もできないような形式で登場してくるだろう。

 そう考えれば、やはり、猶予はあるようでない。まさにギリギリの状態なのかもしれない。また、数年から10年後に現れてくるであろう環境や状況の明確な予測は誰もできないし、おそらく、そんな未来予測のほとんどがハズれてしまうはずだ。

 しかしながら、筆者の観点から、ただ一つ言えることは、テレビというメディアが今後、議論・検討し、模索してゆくべき道は、現在、議論されているものとは全く別の視点と方向性、あるいは考え方からしか現れてこない、ということだ。

 あらゆる未来予測はハズれるであろうが、この予測にはちょっと自信がある。

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