山岡加奈子(ジェトロ・アジア経済研究所)


短期的利益と中長期的リスク


 昨年12月17日に、米国のオバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長は、ほぼ同時にそれぞれの国のテレビ演説で、両国が国交正常化交渉を開始することを発表した。そして年が明けた今年1月21日に、第1回目の交渉がハバナで行われた。本報告では、両国関係の歴史的背景、なぜ今の時期にこの動きが可能になったか、そして今後の展望について概観する。

キューバと米国の関係の歴史的経緯


 1961年1月、大統領に就任したばかりのケネディが、キューバとの断交を宣言して54年が過ぎた。キューバは米国フロリダ半島からわずか140kmの近さに位置する。キューバの首都ハバナからマイアミへ向かうチャーター便は、ハバナを離陸後15分で、フロリダ半島南端のキー・ウェストの上空を通過、マイアミに到着するのはわずか35分後である。

 1959年のキューバ革命の前はまだプロペラ機の時代だが、当時もフロリダとキューバは空路で結ばれており、キューバは米国人にとって、日帰りもできる観光地であった。フェリーで自家用車ごとキューバを訪問する米国人観光客も多かった。現在、米国へ移民あるいは一時滞在するキューバ国民、およびキューバに住む外国人しか利用できないチャーター便は、オバマ大統領になってから便数が激増し、ほぼ毎時間発着している。キューバ人と、米国へ移民したキューバ系の人々にとっては、キューバと米国はすでに互いに相当近い存在でもある。
首脳会談で握手するオバマ米大統領(右)とキューバのカストロ国家評議会議長。両国首脳の会談は59年ぶり =4月11日、パナマ市(ロイター=共同)

 キューバは1902年に米国の占領状態でスペインからの独立を達成した。米国大使の意向がキューバの大統領の意思決定を左右するといわれるほど、米国の影響は強かった。キューバ革命は、1930年代からキューバの政治運動の一大潮流であった民族主義、すなわち「米国からの独立・自立」を旗印に国民の支持を集めた。しかし同時に、これほど地理的に近く、文化的な影響も強い米国は、すでにキューバ人の血肉の中に入り込んでいるようにも思われる。キューバ人が今もあれほど革命前の米国車を大切にし、なけなしのお金をつぎ込み、ぴかぴかに磨いて走らせているのは、彼らの米国への愛着や憧れの象徴である。つまり、キューバ人の米国観はアンビバレントな、愛憎半ばする複雑なものなのだ。

 キューバの対外政策にも、そのアンビバレンスが感じられる。革命が成功したのは1959年1月であるが、フィデル・カストロはその最初の外遊先に米国を選び、わずか3カ月後の同年4月に米国各地を訪問している。彼は米国政府に、共同でラテンアメリカの開発に取り組もうと呼びかけたが、アイゼンハワー大統領は理由をつけて彼に会おうともしなかった。カストロはハーバード大学を訪問した際、高校生のときにハーバードへの入学を志望して不合格だったことを、後にケネディ大統領の補佐官になる同大学政治学部長マクジョージ・バンディに告白している(バンディはその場で、不合格の決定を取り消すので、ぜひ今から入学してくださいと返答した)。流暢な英語で、全米各地の記者会見で質問に答えるフィデルには、後年の反米主義者の片鱗も見られない。

 カストロは革命の目的に社会的公正を掲げており、革命成功後すぐに農地改革を発表した。キューバには米国企業が大農園を所有しており、これらの農園が農地改革の対象になったため、企業は米国政府に農地改革をやめさせるよう、圧力をかけた。しかしカストロは革命前の伝統的政治家の歴代大統領たちと異なり、信念を曲げておとなしく米国の言うことを聞くような若者ではなかった。

 キューバ南岸の瀟洒な都市シエンフエゴスの郊外には、当時から米国企業の石油精製施設が立ち並び、キューバの石油製品の供給を独占していた。米国政府は農地改革への報復として、これらの米系石油会社に、キューバでの石油精製をやめるよう命令した。エネルギー供給を断たれたキューバは、やむなくソ連への接近を決断するのである。

 ちなみにカストロが実施した農地改革は、所有農地の上限を約27ヘクタールに制限するもので、大農園には打撃であるが、たとえば米国自身が第二次世界大戦後に日本や日本の旧植民地で実施した農地改革に比べれば、ずっと穏健なものであった。にもかかわらず、米国政府はこの改革を「共産主義的」と決めつけ、結果としてキューバをソ連陣営へ追いやったのである。