新井克弥(関東学院大学文学部教授)

 facebookを利用していて、ちょっと引っかかっていることがある。それは、“自分の子どもの写真を頻繁にアップする人間がいること”だ。

 これ、少し節度をもってやって欲しいと考える。その根拠は二つある(二つ目はオマケだけれど)。

友達はあなたほど見たいとは思わない


 一つは、これを閲覧する他者の立場から。

 facebookに登場するコメントや写真・動画は原則、友達申請した人間か、その友だちがシェアしたものが掲載される。だから、シェアしたものはともかく、これらを閲覧するのは、原則相手を何らかのかたちで知っているという存在になる(このへんは使い方にもよる。たとえばfacebookでネットワークを広げようとする人間にとっては、見知らぬ相手であっても友達になることは多い。たとえば、シェアされたものをきっかけに友達申請して、友だちになるという場合もある。ただし、その多くは、原則、互いに何らかのかたちで面識がある相手を友達申請するというのが一般的だろう)。

 しかしである、相手を知っていたとして、、いや、たとえよく知っていたとしても、そんなに相手の子どもの写真を見たいとは、はっきり言って思わないだろう。自分の子ども可愛さで、どうしても天使に見えてしまう「親バカ」な気持ちはわからないでもないのだけれど、あまりに頻繁に掲載されると、正直、たとえ仲間内のそれであっても「うざったいもの」になってしまうのは否めない。実のところ、息子・娘の写真を頻繁に見たいのは祖父・祖母、叔父叔母、兄弟と言った身内のエリア内の関わりの人間しかいないはずだからだ。一般的には、まあ、年に数回、拝見させていただければ、それでいいというところではなかろうか(年賀状などでは、よく子どもの写真が掲載されているが、これは「報告」的な意味合いが強く、個人的にはあまり違和感を感じることはない)。

 もう一つは子どもそれ自身の立場から。自分の子どもをfacebook上に公開するのは、いくら友達であったとしても危険性を完全に回避できるわけではない(しかもこの「友達」は「facebookで登録した友達」だ)。もし仮に、友達がその写真をシェアしてしまったとしたら、それは友達でない人間にも閲覧可能になるわけで。それが、ひょっとすると……まあ、めったにそんなことはないだろうが、ごく僅かの確率であったとしても、子どもを危険な立場に晒してしまう可能性がないとも言えない。

公私の区別がSNSでは涵養されていない


 この二つの可能性を孕んでしまう、親のfacebookへの写真の公開。原因は同じところにある。要するに、メディアリテラシー、もう少し限定して言ってしまえばSNSリテラシー(この場合はfacebookリテラシー)が涵養されていないのだ。言い換えればSNSという新しいメディア(もう「新しい」というほどのものでもないかもしれないが)の使い方、とりわけ「公私の区別」のそれがついていないというところに、その原因が求められるのではないだろうか。

 昨年、一昨年あたりにTwitterでバカッターなるものが話題になった。コンビニの冷蔵庫にバイトの従業員が裸で入った写真をアップしたり、ホテルの従業員が有名人のお忍びチェックインをツイートしてしまったり。これが話題になって、アップした本人がバッシングを受けたり、店が閉店に追い込まれたりしたことは、記憶に新しい。子どもの写真をむやみにアップすること。実は、これらの延長上にある心性と僕は考える。

相手が好意的に見てくれる状態を


 個人的に提案したいのは、子どもを見たい人は誰なのかを配慮してからアップするということだ。たとえば、子どもの写真を頻繁にアップしたいのなら、そういったニーズのあるグループを作って、そこに逐次アップすればよい。そのグループに祖父・祖母がメンバーとして加わっていれば、これはSNSとしてはなかなか有意義な使い方のはずだ。

 また、子どもが必ずしもテーマの中心とはならない、つまり別ネタのために子どもを登場させるという場合もアップの対象となる。マンガ『ドラえもん』の中で、お金持ちの息子・スネ夫が、自分の世界旅行の写真をのび太たちに見せるというシーンがある。ところがこの写真、ほとんどがスネ夫のどアップで、その後ろに世界的な名所がかろうじて見えるという代物。そして、これを見せられたのび太たちがウンザリするのだけれど。実は、これと同じ心性に基づくのが現在のfacebookに頻繁に掲載されている「子ども写真」の多くだろう。つまり「○○を見せる」と見せかけて、実は自らのナルシシズムの他者への押しつけをやっている。だから、こちらとしては、ちょっとウンザリするわけで。

 しかし、子どもがものすごく面白いことをやった。笑わせるとか、感動させるとか、泣かせるとか。そして、この「面白さ」をみんなにシェアしてもらいたい。こんな場合は子どもの写真や映像(子どもに関するコメントも含めて)は実に有意義なものと言える。この時、焦点が当てられるのは子どもではなく、子どもがやった行為。これを見ている相手を楽しませることが出来るし、そのネタをシェア=共有することで閲覧者ともコミュニケーションを図ることが出来る(ただし、この場合、子どもを二番目の危険性に晒すことにはなるけれど)。もっとも、その線引きは容易ではないけれど。

 すでに一般化したSNS。SNSの性質によるが、ここがもう一つのパブリックな空間(そして、そのパブリックな空間の中にプライベートな空間を作ることも可能な空間)であることを利用者が熟知するにはまだ少々時間がかかりそうだ。

 10年後、facebookに子どもの写真を頻繁にアップしているなんてことがあったという事実を知って、未来の人間が「へー、そんなバカなことやってたんだ」なんてことになるのでは?僕はそう考えている。そして、それがメディアリテラシーの成熟ということになる。
(ブログ「勝手にメディア社会論」より)

あらい かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。