玉村治 (スポーツ科学・科学ジャーナリスト)

 2011年ドイツのワールドカップ優勝、昨年のロンドン五輪準優勝という輝かしい成績を残した「なでしこジャパン」。強さの秘密は個々の選手の能力の高さ、戦略的な作戦に加え、チームワークの良さがあったことを多くの識者が指摘している。ここでは、なでしこの強さの裏に、最新の脳科学に基づく実践、練習があったことを紹介したい。

 その核心に触れる前に、脳神経外科医で、脳科学者の日本大学の林成之(なりゆき)教授の話に触れたい。なでしこジャパンをはじめ、水泳、陸上、レスリングなど多くの競技のアスリートに影響を与えた、重要な仕掛け人だからだ。

本能を理解した勝負脳


日本大学の林成之教授
 林教授は、「脳低温療法」という新しい治療法を開発したパイオニアだ。交通事故、脳卒中などで脳が障害を受けた時に、脳内は圧力が増し、脳血液の温度(体温ではない)が上がってしまう。39度が長く続くと変性が始まり、44度を超えると短時間で脳死に至る。これを防ぐため、脳を32~34度に冷やして、蘇生手術を行う手法だ。1990年代に確立した、この脳低温療法は、脳障害につきものの後遺症を最小限にし、多くの患者を救った。脳神経外科として多くの患者に向き合った林教授は、人間の「本能」「感情や判断を生み出す情報伝達ルート」に関する深い理解に至った。そして多くの科学的な成果を発表した。

 「患者が後遺症なしに社会に復帰する。最高のパフォーマンスを見せる。脳科学の視点は、肉体的に恵まれているアスリートにも通じるはずだ」と、長い間蓄積した知見をスポーツで試したいと思ったという。勝敗に影響を与える脳の癖、「勝負脳」の考え方を、多くの競技団体や選手の前で話したり、著書で解説したりした。

 世間の注目を集めたきっかけは、日本水泳連盟から「日本代表チームのパフォーマンスを上げてもらえないか」と依頼されたこと。林教授は、選手らの泳ぎを見て、残り10メートルのところで失速していることに気づく。

 そこで選手らに「途中でゴールを意識するとパフォーマンスが下がる。ゴールだと思わずに泳ぐよう」アドバイスした。

 効果はてきめんだった。ゴールまで最高のパフォーマンスを見せて、失速は消えた。アテネ、北京五輪で100m、200m2種目で連覇した北島康介もその一人だ。

脳は「終わりと思った瞬間」活動を停止


 なぜ、ゴールだと思うとダメなのか。それは脳が終わりと思った瞬間、活動をやめてしまう癖があるからだ。これを確かめた実験がある。

 1分間に50回、パネルを移動する光に触れる作業、タッチパネルをやってもらって、残り20秒で「ゴールはまだ遠い」「ゴールは近い」と思った時の大脳皮質の血流活動を比較した。
 「遠い」と思った時は、判断・理解をつかさどる前頭葉、スポーツのパフォーマンスに影響する頭頂連合野が活発に活動しているが、「近い」と思った瞬間、活動をやめてしまう。勝負への意欲とパフォーマンスが下がってしまう現象だ。

 これが勝敗を左右する脳の本能「勝負脳」。脳科学が解明した脳の癖の一つだ。

 実は、ほかにも勝負に影響を及ぼす脳の癖がある。「プレー中の新しい指示」と「プレー中の否定語」などだ。

プレー中は自信満々が大事


 脳というのは新しい刺激、情報を好む。常に何かを求めていると言ってよい。身の危険を察知するなど外界の変化に対応するための本能と言ってよいだろう。これが勝負でも悪さをする。試合直前、あるいは試合中に新しいことを指示されると、そのことに集中力が分散され、本来心掛けていたことを忘れてしまう。例えば、柔道、レスリングなどでプレー中に監督が大声を出しているのをよく見かける。この時、全く新しい指示だと、そのことに気をとられ、本来の力がでないということもありうる。

 実際、林教授のアドバイスで、男子レスリングチームは、世界選手権でコーチがリングサイドからの指示を控え、好結果を残している。

 プレー中の否定語も同様だ。例えば、「きょうは、いつもと違うぞ」「(フィギュアスケートなどで)次は難しい技」「相手が強い」などと選手が思った瞬間、闘争心をなくし、気後れや体の硬さ、不安が芽生えてしまう。プレー中は自信満々でいることが大事だということだろう。

 これらの癖について 林教授は「人間には様々な本能がある。脳組織由来としては、『統一・一貫性の本能』『自己保存本能』『自我本能』がある。どれもスポーツのパフォーマンスに関係しているが、中でも統一・一貫性は重要だ。これを大事にする視点が必要」と語る。

 統一・一貫性とは、首尾一貫したもの、継続的なもの、バランスのとれたものは美しいなどと感じる本能のことを言う。一流選手は、よいパフォーマンスを感覚的に捉えるが、反復練習で培われたわずかな違いを感知するのも統一・一貫性の本能によるものだ。一流でない我々も、同じルートで通勤したり、几帳面な性格がなかなか変えられなかったりするのもこの本能に基づく。

 実は先ほど触れた、脳の癖もこの本能と密接にかかわる。途中でゴールが近いと思ったり、プレー中に新しい指示を言われたりすると、「統一・一貫性本能」が崩され、「自己保存本能」が作用し、パフォーマンスが悪くなるのである。