スイスで過ごした高校時代、そして高校2年のときに日本に来てから、2013年12月26日に出演したテレビ番組で、安倍総理の靖国参拝についてコメントを求められたことがあります。

「そうですよね、海外でやっぱりこの問題と比べられるのが、もしもドイツの首相がヒトラーの墓に墓参りした場合、ほかの国はどう思うのかということで議論されるわけですけど。難しい問題ですよね」

 番組の中ではこう発言しましたが、正直なところ、「右」とか「左」というものに、私はあまり、というか、ほとんど関心はありませんでした。もちろん、日本の政治に対してはそれまでにも強い興味を抱き、新聞やテレビなどでもコメントをさせてもらってはいましたが、そこで「右」や「左」という価値観が何か強い意味を持つとは、それほど思わなかったのです。

 しかし、その発言がきっかけとなり、「英霊に対する侮辱だ」などと、いま思い出してもぞっとするような言葉が、次々とネット上で浴びせられたのです。そう、いわゆる「炎上」です。

 もちろん、前述の発言をみていただければ分かる通り、私は靖国神社をヒトラーの墓と同じだと思っていません。

 にもかかわらず、止むことなく飛んでくる罵声の数々。外に出たら誰もが自分のことを蔑んでいるのではないか、もしかすると刺されるのではないか、という恐怖すら感じたのです。

 しかし、同時にそこで私はそれまで真剣に考えたことがなかった「右」や「左」という価値観に、半ば強制的に向き合わざるを得なくなりました。「右」といえば、まず思い浮かぶのが、いわゆる「ネット右翼」と言われるような人たちです。

 彼らの多くは安倍政権の政策を支持し、中国や韓国などに対して過剰と思われるくらいの敵意を向けます。

 一方で、「左」と言われたときに思い浮かぶのが、いわゆる特定秘密保護法や集団的自衛権行使に反対する人たちです。そう考えれば、安倍さんの政策に賛成する人たちが右、反対する人たちが左、と括ることもできそうですが、果たして本当にそうなのでしょうか。

 たとえば、集団的自衛権行使に反対する人たちは、アベノミクスや原発行政など安倍政権の政策全般に反対するような傾向がありますが、そもそも論点の違うこれらのテーマを一括りにして「左派」と呼べるのでしょうか。考えれば考えるほど、分からなくなったのです。

 私は困ったときには本当に信頼できる方々に、そのヒントを聞きに行くよう心掛けています。そこで、このイデオロギーに関する難しい問題について、萱野稔人さん、鈴木邦男さん、田原総一朗さん、三橋貴明さん、という著名な4人の方々に、「右」「左」とはそもそも何か、昔と今の「右」「左」に違いはあるのかなど、疑問に思っていたことをぶつけてみました。それをまとめたのが『ナショナリズムをとことん考えてみたら』(PHP新書)という一冊ですが、みなさんとの対談の中で、現代の日本社会における「右」「左」の輪郭を、おぼろげながらですが、自分なりに理解できるようになりました。

 たとえばソ連が崩壊するまでの冷戦期には、「右」と「左」の区分けはそれほど難しいものではなかったのではないでしょうか。左がいわゆる「革新」を指したことに対し、右はそうした「革新」へのカウンターパートである「保守」あるいは「体制」であった、といえるのかもしれません。しかし、冷戦が終結した後、そこから右と左の区分けは極めて複雑かつ曖昧になっていったように思えます。

 今ではそれを論じる際、国家の役割の範囲などさまざまな軸があるようにも思えますが、4人の方のお話を伺いながら「なるほど」と思ったのが、その軸の一つとして「グローバル化」をどう考えるか、ということでした。現代において「保守」は何を「保守」するのか、ということにつながるのかもしれませんが、冷戦時代にはそれが「革新」からの「保守」であったものが、今ではグローバル化という巨大な力による国柄としての「保守」という見方もできるでしょう。

 そうした視点を持って考えてみると、たとえばまさに今、ヨーロッパ各国を揺るがす移民問題は、推進派であれば「左」、慎重派であれば「右」という区別もできるのかもしれません。日本ではまだ移民問題はそれほど人々の身近に迫ったものではありませんが、ヨーロッパでは私が幼少期を過ごしたスイスでも、憲法改正によって移民制限が公然と行われるほどの関心事です。そうした軋轢の中で、フランスの『シャルリー・エブド』襲撃事件などが引き起こされているのです。

 その一方で、たとえばそうした「グローバル化」という軸に対し、いわゆる冷戦崩壊前の「右」「左」の価値観、つまり体制VS反体制という価値観が同時並行的にメディアで語られ、右、左の概念がさらに分かりにくくなっているように思えます。結局、各自がそれぞれの「右」「左」の価値観に従って語り合うわけですから、そもそも議論がかみ合うはずもありません。

 その結果、「あいつは右だ」「左だ」という「レッテル貼り」が横行し、ますます対話の機会が減り、さらに議論はどんどんたこつぼ化していくような気がしてならないのです。おそらく、いま「右」や「左」を考えるときに必要なことは、あまり自分の立場に固執せず、場合によっては「右往左往」するくらいの柔軟性ではないでしょうか。

 世の中はどんどん複雑になっています。だからこそ、ある問題に対して、いとも簡単に解が出るようなことはありません。であれば、自分とは立場が違うと思われる人と積極的に「対話」を継続してこそ、本当に生産的で意味のある議論が成り立つのではないでしょうか。

 私は「炎上」という苦い経験をしたからこそ、これからも恐れることなく積極的に「右往左往」しようと思っています。それが、これからも「政治を語る意味」につながっていくのだと、私は信じています。


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