先崎彰容(東日本国際大教授)

 昭和40年代のことである。一人の在野思想家が時代と格闘していた。彼は言う。「現代は群雄割拠の時代であり、戦国乱世の前夜」である、と。当時、国際社会はアメリカとソ連の二極対立の時代が終わり、第三世界のさまざまな国家が自己主張を始めていた。日本国内でも多くの論客が処方箋を示し、自分こそ正しいのだ、こう主張して群雄割拠していた。

 時は昭和43年の、いわゆる「全共闘革命」前夜だった。網野善彦が、三島由紀夫が、そして橋川文三が、つまりこれまで取りあげてきた思想家たちが、時代を正確に見定めようともがいていた。

神道家、思想家の葦津珍彦
 その同じ場所で、葦津珍彦はまなざしを明治にむけ、自分の生きている時代を冷静にとらえようとしていた。

 葦津珍彦は戦前からの右翼である。福岡に生まれ右翼の巨人・頭山(とうやま)満に師事した葦津は、いっぽうで左派の鶴見俊輔らと親交をもち、「思想の科学」に寄稿すら頼まれた。理論派の右翼として橋川文三からも一目置かれた人物、それが葦津珍彦だった。現代が乱世であるならば、激動を生きた戦国武士の気概をもって、しかし冷静に書物をひもとかねばならない。

 戦後日本を診るためには、葦津にならって戦国時代から明治、さらには昭和までを広く学ぶ必要があるのだ。

 たとえば中江兆民と聞いて、人は何をイメージするだろうか。「東洋のルソー」と呼ばれ革命と自由民権を擁護した兆民は、フランス社会思想を紹介した左翼だと思われている。だが一度でよいから、兆民の生涯と著作に接してほしい。すると兆民が頭山満と親交をもち、幸徳秋水を弟子とし、何より西郷隆盛と勝海舟を尊敬していた事実に出くわすではないか。彼が漢文を使いこなし、『孟子』を愛読してやまなかった事実があるではないか。

 中江兆民・頭山満・幸徳秋水・内田良平。これらの思想家たちが、単純な右翼/左翼の区分をこえて活躍していた時代。この時代を明らかにできれば、現在の混乱も理解できる、葦津はそう考えた。日本において、思想の左右が誕生してくるその瞬間、沸騰し激動する瞬間をとらえれば、今、自分の置かれている状況を冷静に位置づけることができる、そう考えたわけだ。

 葦津が尊敬する頭山満その人が、多面的で巨大な人物だった。「アジア主義」と呼ばれる思想をもった彼のもとには、中国革命の父・孫文が、インドの詩聖タゴールが、亡命インド人独立運動家のボースが集った。日本はアジアと連帯し、帝国主義で迫ってくる西欧諸国に対抗するのか、しないのか-。70年前のあの戦争の意義を担う運動を、頭山は展開していたのだ。

 だから葦津は、戦前右翼の代表的存在だった内田良平に対しても、次のような冷静な議論を展開できたのだ。「内田的右翼の弱みは、あまりにも日本国を信頼しすぎ、日本人的自負に流れたところにある。この思想的特徴は、ひとり黒龍会のみのものではなく、日本右翼の歴史をつらぬいている」と(「明治思想史における右翼と左翼の源流」)。

 終戦から70年を迎える今年、本屋を歩いて気づいたことがある。

 それは周辺諸国を批判する本が売れているという事実であり、反原発や東電批判といった分かりやすい権力批判があふれていることだ。前者のアジア批判は「右」に、後者の権力批判はかつての「左」に分けることができる。だがしかし葦津や頭山を参照すれば、そう単純に人間の思想が一つの色に染まるわけがないことに気がつく。彼らに比べ、いまの私たちは、異常なまでに単純化していないか。

 世間が混沌(こんとん)の度合いを深め、世のなかが見えにくくなるほど、出来合いの価値観・世界観に飛びつきたくなる傾向を、私たちはもっている。本屋に渦巻くはげしい言葉のほとんどは、「不安」が原因としか思えない。

 葦津珍彦。この「右翼」の言葉が、ますます貴重なものに思えてくる。

葦津珍彦(あしづ・うずひこ) 明治42(1909)年、福岡県生まれ。戦前は家業の神社建築業に携わる一方で、右翼の立場からナチス思想や軍部の強権政治を批判し、発禁処分を受ける。戦後は神道家として、国家神道解体後の神社護持活動や、神社専門紙「神社新報」の主筆となるなど活躍。著書は『永遠の維新者』『国家神道とは何だったのか』など多数。平成4年、死去。

せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。