平間洋一(元防衛大学校教授)

バルチック艦隊を見ていた男


 日露戦争は、まさしく国民が一丸となって戦った戦争であった。ある日、戦地に赴く兵が馬車に乗ると、御者から「お国のために運賃は要らない」と告げられた。理由を訊くと、「皆がお役に立とうとしているのに、自分は貧しくて寄附すら出来ない。せめて乗せた兵隊さんからお代を頂かないのは当然のことだ」と語ったというのだ。

 当時の新聞には、こうした逸話が多く載せられている。明治人がいかに日本の行く末を案じていたかが窺えよう。とりわけ見逃すことができないのが、バルチック艦隊が迫っている様子を日本海軍に知らせた、海外在住の庶民の存在である。

 1904年(明治37)10月15日、バルト海リバウ港を出港したバルチック艦隊が、アフリカ東岸、フランス軍政下のマダガスカル島に寄港したのは同年12月29日のことだ。実は、その様子を見ていた日本人がいた。

 赤崎伝三郎、天草出身の32歳である。

 赤崎は、家業に失敗した赤崎は借金を返済するため、出稼ぎのマダガスカルでホテルを経営していた。彼はすわ一大事と、すぐさま戦艦の種類や隻数、さらには艦隊が積み込んだ石炭や水、食糧の量を極秘に調査し、急ぎインドのボンベイ日本領事館に電報を打った。

 赤崎はかなり大胆な諜報活動を行なったようで、ロシア軍の中には「昨日貿易商人に装ひたる一人の日本人間諜、スワロフに乗込みたり」(『露艦隊来航秘録』)と訝(いぶか)る者もいた。まさしく命懸けの行動だったが、赤崎を衝き動かしたのは、異郷にあっても変わらぬ愛国心に他ならなかったろう。

「からゆきさん」のアンチ・プロパガンダ 


 外国の娼館に勤める「からゆきさん」もまた、バルチック艦隊の情報を本国に伝えていた。赤崎と同じマダガスカルにいた「からゆきさん」たちは、黒煙を吐いて日本に向かう艦隊の姿を見ると、

 「このままでは、お国が滅ぼされる…!」

 と叫びながら、日本の商船を訪ねて情報を知らせた。また、シンガポールでは現地の日本領事館に駆け込み、貯金や着物、簪を「お国のためにお使いください」と差し出した「からゆきさん」もいたという。

 特筆したいのは、彼女たちが行なったであろう、アンチ・プロパガンダ(逆情報)だ。

 バルチック艦隊は3月16日にマダガスカルを出港するが、この時、ロシア軍には一つの不穏な情報が寄せられていた。すなわち、「日本の巡洋艦がインド洋で待ち伏せている」というものである。
 

 どのような経緯で、ロシア軍がこうした情報を入手したのかは詳(つまび)らかではない。しかし当時、赤崎以外の日本人でマダガスカルにいたのは「からゆきさん」くらいであったことを思うと、彼女たちが懇ろになったロシア兵に吹聴したと考えるのが自然ではないか。

 もちろん、日本海軍の待ち伏せはなかった。しかし結果として、バルチック艦隊はこの情報に大いに翻弄される。

 史料によれば、彼らは数カ月間の航海において「日本の巡洋艦はいつ現われるのか」「闇にまぎれて、水雷艇が襲ってくるのでは」と疑心暗鬼になり、砲をいつでも撃てるように警戒配備を敷いていたのだ。5月27日に対馬沖に到った時には、ロシア兵の多くは心身とともに疲労困憊であり、とても一大決戦を行なえる状態ではなかったと思われる。

勝利を手繰り寄せた遠方からの電報


 マダガスカルを出港したバルチック艦隊は、インド洋を通過した後に、ジャワ(現インドネシア)のスマトラ島沖に差しかかる。この時、艦隊の動きを日本海軍に打電したのが、三井物産の社員・津田弘視であった。

 津田は軍の密命を帯びてスマトラ島にいた。当時、三井物産は天津、上海、香港、台北、マニラ、シンガポール、ボンベイに支店をもち、日本産の石炭販売を行なっていた。軍はその情報網を活用したのだ。

 バルチック艦隊がスマトラ島沖に現われたのは、4月5日。津田は、すぐさまその情報を海軍に打電したという。

 一方、イスタンブールで事業を行なっていた実業家・山田寅次郎(宗有)は、トルコからロシア黒海艦隊の様子を伝えた。黒海艦隊が、すでに日本へ向かっているバルチック艦隊と合流するかどうかは、極めて重要な情報であり、政府が寅次郎に動向を探るよう命じたのだ。

 これを受けた寅次郎は、現地のトルコ人を二十人ほど雇い、24時間体制で高台からボスポラス海峡を見張り続けた。そして、

 「ロシア軍船3隻、ダーダネルス海峡を通過せり」

 という情報を、日本にもたらす。敵艦隊の情報に乏しい連合艦隊にとって、この情報は有益であった。寅次郎は日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物として知られるが、日露戦争においても祖国に多大なる貢献をしていたのだ。

 日本海海戦は、決して軍艦に乗り込んだ男たちだけの戦いではなかった。世界各国の「名もなき日本人」の活躍で、バルチック艦隊の接近を知ることができ、乗組員を疲労困憊させ、それが「奇跡の勝利」につながったのである。

 日本人が一丸となって大国ロシアに立ち向かわんとする当時の空気を、彼らの勇気ある行動から感じ取ることができよう。