三野正洋(元日本大学非常勤講師)

実際の、連合艦隊とバルチック艦隊の実力は?


 これまで多くの類書が、明治日本海軍・連合艦隊(司令長官/東郷平八郎大将)と、ロシア海軍・バルチック艦隊(艦隊司令長官/A・ロジェストウェンスキー中将)の日本海海戦について、詳細に述べている。ここでは両艦隊の「総合戦闘力」を比較してみよう。

 ただし、それぞれの艦種の能力、兵器の性能に限らず、もう少し広範囲の事柄に言及したい。なお、記述の順序は重要度を示しているわけではなく、順不同となっている。

 これらの結果からは、日本側の勝利、ロシア側の惨敗はしごく当然であったことがわかろう。しかしこれは、多くの史(資)料、情報が簡単に入手可能な“現在”という時点でのことであり、“当時”という歴史の中ではやはり大日本帝国の存亡を賭した戦いと見るべきである。

それぞれの艦種の概要


 日本海海戦の参加艦艇の数は、すべてを含めると日本側99隻、ロシア側39隻となっている。もっとも駆逐艦、水雷艇といった小艇を除き、巡洋艦以上の艦種を数えると24隻対18隻となる。

 さらに大口径を持つ戦艦とそれに近い装甲巡洋艦に絞ると互いに12隻だ。ロシア海軍のバルチック艦隊が惨敗を喫し、自身の記録としても“壊滅”という言葉を用いているのは、こうした背景を無視はできない。

艦艇の整備状況


 戦闘の開始にあたって、軍艦が最良の状態に整備されていることは言うまでもなく必須である。この、専門用語でいわゆる〝重整備〟と言われる作業を海上で実施するのは不可能に近い。

 兵器はもちろん、もっとも重要なのは艦底の掃除である。これを怠れば、すぐに貝や藻がびっしりと付着してしまい、速力は2、3割低下する。東航を続け、永く海上にあったバルチック艦隊では時折潜水士を潜らせて除去していたのだろうが、完璧に終わらせることは出来なかったはずである。

 一方、日本艦隊は100km以内に重整備の可能な佐世保、50km以内に軽整備のプサン(釜山)港を有していたから、すべての艦艇の状況は最高の水準といえた。この違いは数値には表われないものの、互いの戦闘力に大きく影響を与えたことは間違いない。
 

 さらに各種の整備について、ロシア側は最初からこれらを軽視していた。というのも、40隻近い大艦隊を、1万キロの彼方に送り出すのに随伴する工作艦は唯一隻だったのだ。これではとうてい、兵器、戦闘、整備の故障に対応出来るはずはなかった。

乗員の訓練の習熟度


 ロシア艦隊は遠征途上でたびたび砲撃訓練を行なっている。しかし、これはそれぞれの軍艦がひとつの標的を狙って発砲するだけのものであった。艦隊が戦闘隊形を組んで実戦に即した機動を実施、それと同時に一斉砲撃(斉撃という)を行なうという訓練をした記録は、皆無である。

 本来なら、艦隊をふたつに分け、赤軍、青軍といった対抗演習を繰り返すべきである。これが一度として実行されなかったので、乗組員の練度は一向に上達しない。

 別な見方をすれば、大艦隊をつつがなく極東に進めることだけが、上層部の目的であり、日本艦隊を撃滅する意欲に欠けていたのだ。これがすべての将兵に伝わってしまい、練度の向上につながらなかった。

 他方、日本艦隊はこの年の2月から4カ月にわたり、猛訓練に終止した。個艦の訓練は当然だが、戦艦、装甲巡洋艦、巡洋艦はもちろん、駆逐艦、水雷艇に至るまでが大艦攻撃に取り組んでいる。

 さらに、これによっていかに疲労が溜まろうと、すぐ近くに母港が存在し、訓練が終われば休養、回復の場が用意されていた。

 数カ月にわたり艦内から一歩も離れることが出来ないロシア軍将兵と、日本側の乗組員とでは、その環境に天地ほどの差があったのである。このような事実も、乗組員の士気に直結したのであった。

艦隊編成の問題


 この問題に関して、日本側の見解は単純であった。速力が多少遅いものの、砲撃力が大きな戦艦部隊、機動力に優れた装甲巡洋艦、それを補助する巡洋艦、駆逐艦と戦力をはっきり区分する。

 主力は戦艦からなる第一戦隊、装甲艦からなる第二戦隊である。この編成は海戦勃発後、互いに連係し合って素晴らしい効果を発揮した。そして昼間の戦闘でロシア側が疲れ切ったとき、軽艦艇が闇を味方に猛攻撃を行なう。この間、日本軍の主力は短時間ながら、休養と整備に時間を費やすことが可能だ。

 これに対してロシア側は戦艦、装甲巡、巡洋艦を組み合わせて編成した。砲撃力、速力などの大きく異なる艦艇を雑多に編成した意図がわからないままなのでああった。

 また、艦隊編成の不備も挙げられる。海防艦や砲艦など時代遅れのものを除き明確に戦闘力を有する軍艦を見ると、 戦艦8/7、装甲巡洋艦8/4、巡洋艦12/3隻(日本/ロシア)となる。ロシア側が10隻少なく、そのうえ戦艦ばかりだ。本来なら戦闘力に関して艦隊というものはピラミッド型を構成すべきであるのに、 全く逆になっている。

 さらに、味方の大型艦を守る〝軽艦艇〟に至ると、日本側の駆逐艦と水雷艇あわせて62隻に対して、僅か9隻。これで夜間戦闘となっては、ロシア戦艦群は護衛なしで戦わなくてはならない。いったん海戦となれば、敵(日本海軍)は、そのような弱点を見逃すはずがない。

艦隊の陣形の問題


 日本側は最初から最後まで一本のライン、すなわち単縦陣で闘った。海戦に当たって指揮官たちはこれが圧倒的に有利な事実を、15年前の日清戦争のさい、はっきりと知っていたからである。明治25年(1892)の黄海海戦では、

 ■日本艦隊:ふたつの艦隊を一本にまとめ単縦陣
 ■清国艦隊:ノコギリの歯の形の横陣

 の形で、戦闘を交えた。

 この海戦における望外の勝利から東郷提督はこれ以外の陣型をいっさい考慮していなかった。戦艦、装甲巡洋艦合わせて12隻が一列に並び、優速をいかして敵艦隊の先頭を押さえたのである。

 これに対してロシア側は、4つの艦隊が不規則にかたまった形で戦闘に突入した。したがって、もっとも南側の艦隊は、味方の頭越しに敵を見ることになってしまった。ここでもなぜロシア艦隊が、“固まりのつらなり”のような形を採用したのか、全く不可解と言う他ない。

 指揮官のロジェストウェンスキーは、この陣容を指示したというより、明確な考えを持たないまま進撃を続けたのであろう。

艦隊指揮官の経験の差


 日本艦隊における第一艦隊の東郷平八郎、第二艦隊の村上彦之丞は、それまで、日清戦争のさいはもちろん、この戦争でたびたび実戦を経験している。

 旅順軍港封鎖作戦、蔚山海戦、黄海8月10日の海戦と、いずれも激しい海上戦闘であった。これらは一応目的を達成し得たが、失敗も少なくなく、反省、改良すべき点も多々あった。とくに8月10日の海戦では、敵艦隊の主力に大きな損害を与えはしたが、1隻も沈めることは出来なかった。この事実は、連合艦隊首脳に少なからず衝撃と教訓をもたらしたのであった。

 ロシア側の戦隊指揮官たちは、全く戦闘の経験を持たなかったばかりか、10カ月前の自軍旅順艦隊敗北の研究を怠り、同時にその事実にも目をつむっていた。

 硝煙の染みついた東郷と村上、そして一度も戦場を踏むことなく大艦隊を指揮をとるロシア軍の将校。この事実からも、勝敗の行方は戦う前から決まっていたと言えるかも知れない。

乗員の士気


 当時にあって帝政ロシアでは革命の気運が高まりつつあった。もともとこの国では貴族と庶民の間に軋轢が存在し、海軍の中でもそれは変わらなかった。バルト海から極東に向う艦隊の大遠征中に、何度となく貴族の士官、庶民の兵員の衝突事件が起きている。

 兵員が上官の命令に逆らう例さえも少なくなかった。このような状況下で、充分な訓練を終え完璧な整備を行ない、しかも本国の目の前の海域で待ちかまえる敵軍と戦わなくてはならなかったのである。

※   ※   ※   ※   ※

 結局、ロシア艦隊は敗れるべくして敗れた。

 日本側を比較して、どのようにひいき目に見ても評価に値する部分はほとんど見当たらない。唯一のそれは、一隻の落伍もなく、バルト海―日本海という大遠征をなし遂げた組織力、艦隊としての航海術の手腕であろうか。

 一方、史上最大の海戦の結末は、結局のところ新興の意気に燃える日本と、崩れゆく老大国帝政ロシアとの、国としての勢いの違いがそのまま現れたと見られるのであった。

 ともあれ、前述のように、当時の日本海軍には、バルチック艦隊が置かれた状況など知る由もない。司令部は大艦隊を迎え撃つべく、脳漿を絞り、次章より触れられるように、「皇国の荒廃」を決する戦いに挑んでいくのであった。