明治38(1905)年5月27日早暁、「敵艦見ゆ」との電報を受け取った東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊は、対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を待ち受け一大決戦に臨んだ。日本海海戦である。

 しかし、28日まで続いた戦闘の結果は予想外の日本の圧勝だった。バルチック艦隊38隻のうち、目的通りウラジオストクにたどりついたのは4隻にとどまった。戦艦6隻など19隻が撃沈され、残りは捕捉されたり逃走中に沈没したりした。日本側の撃沈は水雷艇3隻だけだった。史上まれに見るワンサイドの戦いだった。

 日露戦争の勝利を決定づけるこの戦果に日本中がわいたのは言うまでもないが、その中でも、東京の自宅の病床にあって滂沱(ぼうだ)の涙を流していた一人の海軍関係者がいた。

下瀬雅允(Wikimedia)
 「下瀬火薬」の発明者として知られる工学博士、下瀬雅允(まさちか)である。

 日本海海戦の大勝の理由としてはまず、ロシア艦隊の直前を横切るという大胆な作戦をとった東郷司令長官や幕僚たちの戦術や胆力、指導力があげられる。また、この決戦に備えて鍛錬を重ねた海軍の砲撃の正確さ、そしてバルチック艦隊の長旅による士気の低下などもあった。

 しかし忘れてはならないのが海戦に使われた下瀬火薬の存在だった。この火薬の爆発力は当時の世界で群を抜いているといわれ、次々とロシア艦を沈める大きな力となったことは間違いなかった。

 下瀬は工部大学校を卒業後、印刷局勤務を経て明治20(1887)年五月から海軍技手として兵器製造所で、火薬の研究を始めた。

 昭和18年に松原宏遠氏がまとめた『下瀬火薬考』という本によれば、下瀬に求められていたのは、当時フランスで開発されていたメリニットという炸裂(さくれつ)性の高い爆薬に「匹敵し、あわよくばこれを陵駕(りょうが)する性能をもつ炸薬」だった。

 しかし、下瀬は1年足らずの間に早くも第一次の試薬を作り、明治25年には「下瀬火薬」として完成させ、海軍に採用された。そして、32年には東京・滝野川に下瀬火薬製造所を設立、大量生産に乗り出す。今の地名では北区西ケ原、移転する前の東京外国語大のキャンパスがあった場所である。

 日本海海戦によって、下瀬火薬も「3歳の子供でも名前を知っている」といわれるほど有名になった。しかし、その成分や製法などは、メリニットと同じピクリン酸を使っているらしいということ以外軍事秘密となっていた。

 ただ『下瀬火薬考』には、下瀬自身が日露戦争最中の明治37年12月に行った講演の内容が載っている。それによれば、下瀬火薬はそれまで主流だった綿火薬に比べ乾燥や摩擦に強かった。だから、砲弾に暴発を防ぐための余計なものをつめ込む必要がなかった。火薬の割合が大きい分だけ威力も大きかったというわけである。

 とはいえ、従来の火薬との効力の比較は100対120程度だとし、ロシアの砲弾は信管が悪いため不発弾が多いのではないかと分析している。

 信管は砲弾の中の火薬を実際に爆発させる装置だが、明治25年に完成した下瀬火薬が27年からの日清戦争で使用されなかったのは、この火薬に合う信管がなかったからだった。

 ところが同33(1900)年、海軍の軍人だった伊集院五郎が世界的に性能が優れた「伊集院信管」を発明、下瀬火薬とセットになって日本海軍の砲弾の威力を高めたのだ。

 日露戦争前の10年ほどは、日本の科学や技術の花が一度に開いた時期だった。明治30年、志賀潔による赤痢菌の発見をはじめ、32年には豊田佐吉が豊田式動力織機を発明した。さらに33年には高峰譲吉のアドレナリンの抽出、36年の物理学者、長岡半太郎による「土星型原子模型」の仮説発表などが続いた。いずれも、西洋の科学技術と肩を並べるレベルのものばかりで、江戸時代からの高い教育水準や明治政府の科学立国の方針がその背景にはあった。

 下瀬火薬や伊集院信管などの軍事技術も、こうした流れの中で生み出されたもので、科学技術が大国ロシアに対抗できるまでに国力を高めた。逆にいえば国家存亡への危機感が科学のレベルを高めたとも言えるだろう。(皿木喜久)