濱口和久(拓殖大日本文化研究所客員教授)

アジア最大の建設計画


 在日米海軍司令部も置かれる横須賀基地(神奈川県横須賀市)。西太平洋からインド洋までを作戦海域とする第7艦隊の本拠地で、同艦隊の旗艦「ブルーリッジ」と、唯一の海外常駐となる空母「ジョージ・ワシントン」の母港となっている。その横須賀基地の前身となったのが、徳川幕府がその礎を築いた横須賀造船所だ。

 幕末の嘉永6(1853)年、神奈川・浦賀沖に米国のペリー提督率いる黒船が現れると、幕府は軍艦や船舶の建造、購入に力を入れ、海軍の大幅な強化を図った。

 だが大量の軍艦や船舶を保有するということは、その修理や器具製造のための施設も必要となる。そこで幕府の勘定奉行、小栗忠順(おぐり・ただまさ)は造船所の建設計画を発案した。重臣たちの多くは建設に反対したが、当時、将軍後見職だった徳川慶喜が承諾し、計画は実行に移された。

フランス人技師によって建設された横須賀造船所
 幕府は元治元(1864)年、造船所の建設をフランス公使レオン・ロッシュに依頼する。ロッシュは視察の結果、湾の形に変化があって風波の心配がないことなどから、横須賀を造船所の建設予定地に決定。さらにフランスから海軍大技士であったフランソワ・レオンス・ヴェルニーを招き、造船所建設の責任者に任命した。

 こうして慶応元(1865)年9月、造船所の建設が始まった。敷地は約24万6千平方メートル。建設費には4年間で総額240万ドルという莫大な資金が投入された。当時のアジアにおいては最大規模の建設計画であり、その費用は、金の含有量が少ない万延二分判を増鋳する貨幣発行益によって賄い、不足分は絹の利権を担保にフランスからの借款で充当した。

 フランスが造船所建設に積極的だった理由は、欧州全土に蔓延した微粒子病というカイコの病気によって養蚕業が壊滅状態にあり、フランス最大の輸出品である絹織物の原料として、品質の優れた日本の絹が必要であったからだといわれている。

 しかし慶応4(1868)年に戊辰戦争が勃発し、造船所は新政府軍によって接収。維新後、工事は新政府に引き継がれ、明治4(1871)に完成をみた。その後、海軍省の所管となり、明治8(1875)年ごろから本格的な軍艦を建造するようになる。

“生みの親”小栗忠順の先見性


 だが、造船所の“生みの親”である小栗は完成を見ることなく、戊辰戦争のただ中で新政府軍に捕らえられ、斬首されている。

 日本海軍、いや世界の海軍史上に残る勝利となった日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥は、その7年後の明治45(1912)年7月、自宅に小栗の遺族を招き、「日本海海戦の勝利は小栗が造った横須賀造船所のおかげ」と礼を述べたという。小栗の先見性が認められた瞬間だった。多くの歴史小説を書いた司馬遼太郎も、小栗を「明治の父」と高く評価している。

 その日露戦争の勝利を語るうえで忘れてはならないのが、明治35(1902)年1月に締結された日英同盟の存在だ。ちょうどこの年、日本海海戦の連合艦隊旗艦となった戦艦三笠が就航している。

 英国が「栄光ある孤立」を捨てて日本と同盟を結ぶ決断をした理由には、明治33(1900)年の北清事変(義和団事件)の際に中国へ出兵した日本兵の規律の高さを高く評価したことと、中国における英国の権益と中国・朝鮮における日本の権益を相互に擁護することで利害が一致したことの2つが、一般には挙げられる。

 だがもう1つの理由として、軍艦を修理できる高い技術力を備えたドックを持つ横須賀造船所の存在が同盟締結に寄与したということは、あまり知られていない。

 当時、アジアの中で、三笠クラスの戦艦を修理できるドックを持つ造船所は、横須賀のみだった。東郷が「日本海海戦の勝利は横須賀造船所のおかげ」と言ったように、造船大国の英国も、横須賀造船所の能力を高く評価していたのである。

1世紀後も現役


 横須賀造船所は横須賀海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変えながら、その後も戦艦陸奥、空母信濃をはじめ数々の軍艦がここで建造された。

 終戦後は米軍に接収されたが、3基の「ドライドック」は完成から100年が過ぎた今も、米海軍横須賀基地の船舶修理施設として使用され続けている。同盟の相手は英国から米国に代わっても、かつての横須賀造船所で働く日本人技術者はその技術力で同盟の一翼を担い、支えているのだ。

はまぐち・かずひさ 昭和43年、熊本県菊池市生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊を経て、日本政策研究センター研究員などを歴任。著書に『だれが日本の領土を守るのか?』(たちばな出版)、『探訪 日本の名城』(青林堂)など。