歴史街道編集部

響き渡り続けた砲声


 「最強の艦を先頭に据える」――戦艦三笠を的確に運用し、明治38年(1905)の日本海海戦において、バルチック艦隊相手に完全勝利を収めた明治連合艦隊。

 三笠の「運用」という点で見逃せないのが、乗組員たちがこの最新戦艦を使いこなすために、猛訓練を重ねていた点であろう。バルチック艦隊にも竣工したばかりの戦艦は存在したが、訓練が充分に行なわれなかったため、その「真価」は発揮されなかった。

 それでは、具体的には、どのような訓練が行なわれていたのだろうかか。日本海海戦時、戦艦三笠の砲術長を務めていた安保清種の述懐によれば、一にも二にも、徹底的に射撃訓練が行なわれたという。

 当時、三笠は1年間に2万8、9千発の砲弾が用意されていた。平時であれば、3、4割は翌年度に持ち越される弾数である。

 しかし、日本海海戦前の鎮海湾での訓練では、3万発を、わずか10日間で使い切り、あとから弾薬を補充して訓練を続けるという状況だったという。

 「艦のあるところ、明けても暮れてもポンポンと豆を煎るような銃声はかしこにもここにも、到るところにその響きを伝えて内膅砲射撃万里同風というありさまでした」とは、安保砲術長の言葉だ。

 なお、内膅砲(ないとうほう)射撃とは、小銃を大砲の中心に装置して、大砲を操縦して目標を狙い、その小銃弾を発射して、大砲の弾を用いることなく大砲照準の稽古をするものだ。明治海軍が日夜、様々な工夫を凝らして研鑽を積んだことが窺える。

「わが艦隊の射手には充分の自信があった」


 また、乗組員たちの士気が極めて高かったことも、見逃せない。日本海海戦時、装甲巡洋艦浅間の砲手・有延芳太郎は次のように語っている。

 「私らは昼夜配置に関して訓練されるほか、余暇には艦内編制等について競って勉強したものであります。根拠地集合中は常に他艦に見学に行き、その兵器の善用について各艦ごとに工夫された設備を見学したり、また艦内では射撃競技が行われていました」

 そして、次のように力強く続けている。

 「東郷(平八郎)長官の艦隊解散に際し訓示された百発百中を目途として磨きをかけ、既に遠き以前からわが艦隊の射手には充分の自信があったことと思います」

 「かくしていやが上にも緊張し切った気分と自信とは、今思うてもわが戦勝は当然だと思われます。かように海戦までには充分準備も出来ているので、各艦は敵艦の来着を待ちわびていました」

 安保砲術長も「自分も当時『三笠』の砲術長として、射撃ということについては十分の自信を持っておったのであります」と述べている。

 さらにいえば、連合艦隊は明治38年2月から4カ月間、戦艦、装甲巡洋艦、巡洋艦はもちろんのこと、駆逐艦、水雷艇に至るまでが大艦攻撃に取り組んでいる。

 一方のバルチック艦隊は、遠征途上でたびたび砲撃訓練を行なっていたものの、それぞれの艦がひとつの標的を狙って発砲するだけのものであり、艦隊が戦闘隊形を組んで実践に即した演習を実施した記録はない。

 ロシア海軍をはるかに凌駕する「練度」と「士気」で、最新最強艦三笠を旗艦に据えた連合艦隊を見事に使いこなせばこそ、世界を驚嘆させる勝利を収めることができたのだろう。