佐瀬昌盛(防衛大学校名誉教授)

朝鮮戦争はじまる


 昭和25年6月25日、突如として朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島ではその二年前、南で大韓民国の樹立宣言があり(8月15日)、後を追うように北に朝鮮民主主義人民共和国が誕生していた(9月8日)。日本の敗戦後、半島の北はソ連が、南は米軍が占領したが、それぞれに政権が生まれたので両占領軍はほどなく撤退していった。あとに残されたのは両大国による力の空白状態だった。

 追いかけるように昭和30年1月、アチソン米国務長官が極東の安全保障環境に関する演説を行ない、西太平洋における米国の防衛線に言及した。それはアリューシャン列島、日本、沖縄、フィリピンを結ぶ線だとされた。その西方の朝鮮半島は、米軍に関する限り力の空白地帯となるわけだった。
1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー元帥を迎える李承晩・韓国初代大統領(右)

 同じ頃、欧州に向けてのワシントンの関心は全く違っていた。大戦が終結しても、東欧一帯を「解放」したソ連軍は撤退するどころか、東欧各国に順次、親ソ政権を樹立していった。逆に米軍はナチス・ドイツを打倒したあと、大西洋の彼方へと撤退した。つまり、冷戦の予感は米国には働いていなかった。国際連合が誕生し、その中核となる安全保障理事会では米、ソ、英、仏、中の五大国が――拒否権はもったものの――国際の平和のため協調していけると信じたのである。

 ところがモスクワのこの一方的行動を前にトルーマン米大統領は有名な「ドクトリン」を発表(昭和22年3月12日)、西欧を「力の空白」地帯とはしない方針を明示した。冷戦のはじまりである。欧州と極東に対する米国の安保関心には注目すべきタイム・ラグがあった。と言うのも、アチソン演説を修正して、ワシントンが朝鮮半島にコミットするには、北による南の攻撃とそれがもたらした衝撃という高い授業料を払わなければならなかったからだ。

 朝鮮半島での戦乱勃発は、日本統治の全権を有したに等しいマッカーサー元帥とGHQにとって大衝撃となる。わが国を占領していた在日米軍は急拠、仁川に上陸作戦を展開する。そしてソウルを目指して北上していった。では日本はどうなるのか。こんどはわが国が力の空白地帯化する懸念がでてきた。その空白を日本自身によって埋める必要はないのか。

 欧州での冷戦開始、朝鮮半島への熱戦勃発、そして日本の安保問題という玉突き現象の結果、マッカーサー総司令部と吉田茂政権とは厄介な難題に直面する。米国の日本統治は民主化、非軍事化、非集中化の3D政策を追求してきたのだが、いまや二番目のDは変更を迫られる。そのうえ、日本政府はワシントンの朝鮮半島への反攻を支援しなければならない。それはどういう形で行なわれたか。

 やや誇張して言えば、出撃する米軍のため臨時の軍需工場の役割を引き受けることだった。いわゆる「朝鮮特需」である。その一端を私ははからずも目撃した。当時、私は奈良市に住んでいたが、越境入学して大阪の住吉高校に通った。毎朝乗る近鉄線で布施駅近くを走る車窓から見ると、沿線近くの町工場の敷地に多数の砲弾がピカピカと輝いて並べられていた。聞くところによると、朝鮮戦争で米軍が使用するための下請け生産ということなので、妙な気がした。平和憲法を叩き込まれた高校生にとっては忘れ難い光景である。なんとなく「他人の不幸、鴨の味」といった感じだった。