山内昌之(明治大特任教授)

 伊勢(三重県)の松阪といえば、何よりも本居宣長(のりなが)の故郷として知られる。しかし、この町が生んだ偉人の松浦武四郎を知る人は少ない。

 現代の日本人は、アイヌ民族の文化や歴史の探求はもとより、その生活についても親身に心配した松浦のヒューマニティー(人類愛)によってどれほど救われているかを反省の念とともに振り返る必要もある。

 幕末から明治に生きた探検家、松浦は、新政府の行政官にもなり、北海道という名称を考えついた人物である。いまの北海道の漢字の地名は、アイヌ語をもとにした松浦の考案によるところが多い。

 父母の反対を押し切って諸国を旅した末、僧となった松浦は、弘化元(1844)年に還俗(げんぞく)して東西蝦夷(えぞ)地の探検に出発し、足跡は択捉(えとろふ)島や樺太にまで及んだ。水戸の徳川斉昭(なりあき)や藤田東湖、吉田松陰ら勤皇派とも交わりをもち、日本の北辺の安全保障に意を用いた。

同胞の非道を厳しく告発


 安政2(1855)年に蝦夷山川地理取調御用御雇(さんせんちりとりしらべごようおやとい)に抜擢(ばってき)され、蝦夷地をくまなく跋渉(ばっしょう)して樺太にも渡り、道路開墾の策や札幌に統治の府を置くべきことを箱館奉行に上申した。その「東西蝦夷山川地理取調図」は北海道経営の基礎にもなる大業であった。

 しかし、これだけなら松浦はアイヌ民族史の専門家として終わっていたに違いない。彼が偉いのは、蝦夷地の有力な先住民族アイヌの姿を伝えるために、調査で出会ったアイヌの人びとについてありのままに描き、「近世蝦夷人物誌」などの著作を発表したところにある。

 なかには、アイヌの勇敢な男性や家族思いの女性や叡智(えいち)に富んだエカシ(長老)についての興味深い逸話が載っている。また、そこには17世紀以来アイヌを収奪してきた松前藩の役人や商人たちのむごい交易や支配の記録も含まれており、和人(日本人)ながら同胞の非道な行いを厳しく告発している。ここに松浦の真骨頂があるのだ。

三重県松阪市の松浦武四郎記念館と姉妹提携しアイヌ民族博物館に
建てられた石碑 =北海道白老郡白老町
 松浦が観察した江戸末期のアイヌの生活は、日本人との交易によって日本の商品への依存がますます強まるなかで、先祖代々の狩猟や漁労の生活が激変していた。

 アイヌは、アメリカ先住民と同じく金属や衣服などを植民者や出入りの商人から購入することで生活の便宜を高めた(ブレット・ウォーカー著『蝦夷地の征服』北海道大学出版会)。しかし、この機能化は、アイヌの生活を日本社会の生活水準や道徳基準への適応を強制する結果ともなり、交易に必要な鳥獣類を得るために必要を超えて頻繁に狩猟を試みたことで、鳥獣を近くの生息地から遠方に追い払うことになった。

 松浦は、長いことアイヌ民族が尊重してきた鳥獣や魚介などの生態系が、松前藩の商場知行制(あきないばちぎょう)(家臣に主要地の漁労権を与えて米に代わる知行を割り与える制度)の発展によって、アイヌの精神と物質生活を支える存在から「企業の動物」に変わっていく様子を的確に分析した。

 彼は、弱まる生存システムを補うためにますます交易商品に依存する悪循環に陥るアイヌの非運を嘆いた。米、酒、たばこ、鉄瓶、やかん、針などはアイヌにも生活の必需品となった。とくに、日本の商人がもたらした酒やたばこといった嗜好品(しこうひん)は、健全な男子の健康を蝕(むしば)んだだけでなく、民族の尊厳や体面を失うような卑屈さや退嬰(たいえい)ぶりの根元ともなる悪習を培った。

 また、アイヌのいちばん有名な交易品は俵物(たわらもの)(茹(ゆ)でて干した海鼠(なまこ)・干し鮑(あわび)・昆布)、動物の毛皮やいろいろな薬種(やくしゅ)であったが、その取引勘定にも伝説化した不正が跋扈(ばっこ)したことは日本人として恥ずかしいことだ。

 大ぶりな10尾の鮭(さけ)を数えるのに、1から始めるのでなく「はじめ」としてまず1尾取り、1、2と続き10の後に「おしまい」でまた1尾余分に取る勘定である。ひどい場所にいけば、「まんなか」と数えてさらに1尾持っていくという詐欺的計算さえしたともいわれる。

 北海道の奥地まで探検した松浦にとって、砂金採集のための水流調整や地形変化によって鮭の遡上(そじょう)や産卵を妨害した和人の行為は苦々しいものだったはずだ。

 しかし、松前家臣団の給与制度としての商場知行制の複雑なネットワークと長崎の俵物貿易と内地商人の蝦夷地進出(商場の会所支配)の絡み合いのなかでアイヌがますます疲弊したのは、人口の減少問題である。

アイヌ保護策の挫折 


 強力な民族と弱体な民族が接触し遭遇すると、未知の伝染病など疾病の深刻な打撃を受けることは世界史の常識である。

 病気の伝染は、拡大しつつある商業活動の副産物でもあった。アイヌと日本人との交易、山丹(さんたん)交易と呼ばれる沿海州やサハリンとの交流は、アイヌの知らなかった病気をかれらの生活にもちこんだ。

 ことに梅毒の流行は、オーストラリアの先住民の場合のように、先住民族の女性の出生率を下げて胎児の流産や未熟児化をもたらした。これは民族の活力を確実に衰弱させる大きな要因となっていく。

 松浦武四郎は石狩漁場の和人の番人が、アイヌの男を小樽(オタルナイ)に送った留守を狙って、その妻を犯し梅毒をうつした例を紹介している。また松浦は、釧路(クスリ)の41人の番人のうち36人が、アイヌを近くの厚岸(アッケシ)場所の仕事に送り出したのち、その妻たちを「妾(めかけ)」にしていた没義道(もぎどう)を記録していた。

 これは、箱館、松前、江差(えさし)の遊郭や色町などを通した感染と並んで、アイヌに抵抗力のなかった梅毒を広げる原因の一つになった。

 また寛政12(1800)年に記録を残した松田伝十郎は、天然痘の流行が人口激減と村落破壊の大きな原因になったと語っている。松前藩の放置政策は、都合が悪くなると、蝦夷(えぞ)のアイヌ居住地が異民族の住む異国であり、統治責任の外にあるとして疫病対策をとろうともしなかった。この認識は、時に不法となる経済搾取の事実と矛盾するはずであったが、そうしたギャップは松前藩にはなかったようである。

 しかし、この不正を鋭く告発したのが松浦武四郎であった。

 松浦は、文化4(1807)年に2万6256人と記録された北海道アイヌの人口が47年後には1万7810人に減少し、32%も人が減った悲劇を調査している。その一例を挙げるなら、東蝦夷地の厚岸のアイヌ人口は1809年には177軒と874人を数えたのに、安政3(1856)年になると53軒と217人に激減し、47年間のうちに75%も衰退してしまったのだ。東部の根室(ネモロ)では19世紀初頭に1200人以上のアイヌが住んでいたのに、1850年代になると人口は511人に減った。57%も激減した勘定になる(ブレット・ウォーカー『蝦夷地の征服』第7章)。

 伝染病境界線ともいうべき寄せ波が限りなく北上し、蝦夷地に新たな疫病を持ちこんだのである。アイヌの自治力が弱体化し、その土地の日本領土への統合に抵抗する能力を失わせた大きな原因は、疾病の拡大と抵抗力の減退であった。

 すでに幕末には、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)らは蝦夷地情報を知るために、松浦の家を訪れていた。明治新政府が成立すると、松浦を高く評価していた大久保は政府に彼を登用させ、「蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)」に任じている。

 明治2(1869)年に戊辰戦争が終結し開拓使が設置されると、これまでの調査実績を認められ蝦夷地通として、ややあって開拓判官(はんがん)の職に任命された。長官、次官に次ぐポストである。新天地で理想の政治を目指すには十分な職であった。

立ちはだかる抵抗勢力


 松浦は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとする真面目な政策を公に採用しようともがき続けた。和人とアイヌが共存しながら、アイヌが安心して暮らせる日々を夢見ていた松浦は、抵抗勢力とぶつかることになる。それは、江戸時代の商場知行制(あきないばちぎょうせい)のように商人たちが勝手気儘(きまま)にアイヌの男女労働力を酷使する悪習を守るか、廃止するかという争いでもあった。

 開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちに賄賂攻勢をかけられて、松浦の提言を骨抜きにしたようだ。また松浦は、律令制度における遥任(ようにん)のように東京で勤務させられて、北海道現地で手腕を振るうこともできなかった。

 孤立した松浦は、開拓使を辞めてしまった。それでも終身15人扶持(ぶち)(米価換算150万円ほど)を給された異例の厚遇は、新政府の後ろめたさからであろう。

 その後に雅号として「馬角斎(ばかくさい)」を名乗ったともいわれるが、それは明治新政府に対するあてつけでもあろうか。

松浦武四郎
文化15(1818)年、伊勢の郷士の家に生まれる。天保4(1833)年に出奔し、諸国を巡る。北方情勢の緊迫を聞き、弘化2(1845)年から蝦夷地(北海道)を探検。地誌など大量の著作を刊行する。安政2(1855)年には幕府御雇(おやとい)の蝦夷地御用掛(ごようがかり)。明治維新後は新政府に起用され、明治2(1869)年に開拓判官(はんがん)となり、北海道名などを選定。明治21(1888)年、死去。