山下好孝(北海道大大学院教授)

「好孝はん、いはる?」

 この表題の文を見て、読者のみなさんはどのような印象を持たれただろうか。関西弁特有の丁寧な呼びかけ「~はん」や、動詞の敬語形が使われているので、どこかの偉い人のことを尋ねている文だと思われたかも知れない。

 実はこの文、幼いかわいい私が保育園にいるとき、担当の先生に言われた文である。5歳くらいの子供に発した文で、決して商家の旦那さんに向かって発せられた文ではない。

 しかし、今までもよく指摘されてきているように、関西弁で「~はん」を使ったり「~はる」という敬語をつければ、何でもかんでもいいというものではない。

 「はん」の使い方に関しては、先行する人名がア列やエ列で終わる場合にのみ使えると言われてきた。神戸市外国語大学の中井幸比古先生の研究によると、「さん」が「はん」になる可能性は「a>eo >iu>ン、ッ」の四段階になるそうだ。「ン」で終わる人名の後に「はん」が付くことは絶対ない。それにも関わらず数年前テレビで放送されていたお茶のコマーシャルで、宮沢りえさんが本木雅弘さんに向かって「伊右衛門はん」と呼びかけていた。一方の伊右衛門演じる本木雅弘さんも「あ、お月はん」とかいう不自然な関西弁を発していた。そしてこのコマーシャルを作ったのがサントリーという関西を代表する企業であるというのも許しがたい。

 関西を代表すると言うと、電鉄会社の京阪電車が長い間「けいはん乗る人、おけいはん」という宣伝を使い続けている。「おけい」を丁寧に発音すると「い」で終わる。ぞんざいな発音になると「おけー」になるためまだ許せるのかもしれないが、関西人の私としてはいまだに不自然さを感じざるを得ない。

 さらに、「はん」は必ずしも目上に対する敬意を表すものではなく、場合によっては親しみを表現するのである。表題の表現のように、私は日野誕生院保育園(京都市伏見区)にいたころ、「よしたかはん」と呼ばれていた。このような場合、「はん」を姓につけるのではなく下の名につけるのである。他にも「ひでたかはん」も同じ保育園に在籍していた。「ひでたかはん」と仲が良かったのが「ひとっさん(均さん)」。こちらは決して「ひとしはん」にはならない。「はん」以外でも親しみを表すいいかたとして「っつぁん」「やん」「ちん」などがある。これらがファーストネームやニックネームにつくと、ますます親しみが増す。従ってなくなった人間国宝の桂米朝師匠に、軽々と「米朝はん」などとは言えないのである。

 さて、姓や役職につく「はん」はどうであろうか。関西弁では「はん」より「さん」の方が敬意の度合いが高いようで、神社仏閣にはほとんど「さん」がつく。東京でお寺などに「さま」をつけて「さん」をつけないのと同様である。東京は「天神さま」、関西では「天神さん」となる。一方、江戸の長屋の住人は「熊さん、八っつぁん」である。

 また関西では動物や食べ物などに「さん」や「ちゃん」がつくことが知られている。人名ではないので「はん」がつくことはない。人以外につく「さん」に関しては、敬意を表す系統と「丸くてかわいいもの」を表す系統の二つに分類出来そうだ。前者は家の大事な場所である「お竈(くど)さん」つまり「かまど」や、高貴な身分の乗り物である「お馬さん」などに現れている。もし「お馬ちゃん」となると、子供の馬になり、敬意はない。後者としては「お芋さん」「お豆さん」「おかいさん(粥)」などであり、さらに小さくなると「飴ちゃん」になり、接頭辞の「お」も取れる。

 次に動詞につく「はる」について見てみよう。関西、とくに京都では「はる」は尊敬語とは言えなくなってきている。たとえば、犯人逮捕のニュースを聞いて、若い女性が「犯人、捕まらはった!」と言うことは稀ではない。「猫が寝たはった。お馬さん、歩いたはるわ」などというのも普通である。つまり「はる」は尊敬語とともに美化語としても使われるようになった。したがって表題の「好孝はん、いはる?」は、親しみを持っている話し相手に、格調高く発話した疑問文なのである。

 さて敬語には「尊敬語」と「謙譲語」がある。関西弁の「はる」には尊敬のニュアンスがあるが、「謙譲」のニュアンスはどのように表すのであろうか。筆者は「~さしてもらう、いただく」がその機能を担っていると考えている。

 「いつ、来はります?」という問いに丁寧に答えるには「ほな、明日、よせてもらいまっさ」となる。標準語の「参る、伺う、お邪魔する」等の語彙で覚えなくてもいいので、たいへん便利である。その便利さが最近若者の間で流布している「~てもらってもいいですか」につながっているのではなかろうか。最近の学生は人にものを頼むとき、たとえば「窓を開けてください」とは言わず「窓を開けてもらってもいいですか」と長ったらしい表現を使う。関西の商売人が使っていた表現が、日本中に広がり、それが若者言葉にも入り込んだのではなかろうか。関西弁のパワーはお笑いの世界にとどまらないのである。

やました・よしたか 1956年、京都市伏見区生まれ。神戸市外国語大学大学院外国語学研究科(イスパニア語学)修士課程修了。現在北海道大学、大学院、国際広報メディア・観光学院、および国際本部留学生センター、教授。専門はスペイン語学、関西弁学、日本語学、日本語教育。共著に「朝日新聞で日本を読む」(くろしお出版)。著書に「関西弁講義」(講談社学術文庫)など。