神戸連続児童殺傷事件の元少年Aの手記『絶歌』(太田出版)への反発は予想以上に広がり、いまだに収まっていない。アマゾンの読者レビューを見ると「金になればいいのか?太田出版」などと、著者や出版社への非難があふれている。被害者遺族の悲しみが癒えていないのに、殺人を行った当人が罰せられることもなく、のうのうと社会復帰しているように見えることへの反発、さらにその本が初版10万をほぼ売り切って5万部の増刷という「商売として儲かった」事実も、多くの人の怒りをさらに加速した。

 これまで殺人を犯した者が本を著すというのは、私の編集した宮﨑勤死刑囚(既に執行)の『夢のなか』『夢のなか、いまも』もそうだし、秋葉原事件・加藤智大死刑囚も何冊も本を出している。今回、最初に元少年Aが出版を持ちかけた幻冬舎からは、市橋達也受刑者の『逮捕されるまで』も刊行されている。

 それらに比して今回の本への反発が大きいのは、たぶん元少年Aが明確な処罰を受けずに社会復帰していることが大きいのだと思う。似た例としては、パリ人肉事件の佐川一政氏のケースがある。彼もオランダ人の女子留学生をパリで殺害し、その肉を食べるという衝撃的な事件を犯しながら、フランスでの精神鑑定で精神障害を認定され、罪に問われることなく日本に送還され、その後社会復帰した。

 奇しくも今回の『絶歌』を非難した『週刊新潮』6月25日号の見出しは「気を付けろ!元『少年A』が歩いている!」だった。言うまでもなく、かつて佐川氏を扱った記事のタイトル「気を付けろ!佐川君が歩いている!」をもじったものだ。殺人を犯した者が罪に問われることなく、自分たちと同じ市民社会に復帰していることを指弾したタイトルだ。

 今回は、そのタイトルの脇に「遺族感情を逆なでして手記の印税1500万円!」と書かれている。記事の突っ込み具合では同日発売の『週刊文春』に負けているが、『週刊新潮』のこういう市民感情を煽りたてる編集感覚はなかなか巧妙だ。

 それは理屈を超えた市民感情で、少年法の精神というものを理屈では理解しているつもりでも、いざ具体的な実例に直面すると釈然としないという多くの市民の感じる気持ちだろう。逆に言えば、我々は、少年法に則った犯罪者の社会復帰というのがどういうものか、特にこの事件のような重大事件の場合について具体的にどのように進行していくのか、今回のように実例に接する経験がこれまでなかったといえる。今回はその初めての体験かもしれない。

 被害者遺族が怒って発売中止を訴えるのも、当事者としては当然だと思う。また地元の神戸市などがそれなりに気を配るのもやむをえないと思う。ただ、明石市など行政が書店に販売自粛を匂わせる要請を送ったりするのは、行き過ぎだと思う。出版を非難することと、その出版を行政などの力で封印することとは別のことであることを認識しないと、「出版の自由」を根底から危うくするとんでもないことになりかねない。

 幾つかの書店チェーンが販売自粛を決めたことや、地元図書館が閉架などの閲覧制限でなく、本を置くことそのものを拒否したことなども、きちんと議論し検証しないといけないと思う。

 そういう出版や販売・閲覧をめぐる今回の問題については、私は共同通信記事のコメントや東京新聞の記事に書いたし、7月7日発売の『創』8月号にも詳述したので、本稿では、もう少し『絶歌』の内容に踏み込んでみたい。

 というのも、『絶歌』の構成自体が、元少年に医療少年院でいったいどういう治療がなされたかほとんど書いていないし、それゆえ彼自身が自分の犯した罪についてどう向き合い克服したのか、あまり書かれていないからだ。恐らくそのことも、今回の本が大きな社会的反発を招いた一因だと思う。

 例えば元少年Aは、自分の犯した2つの殺人については直接的な記述をすっぽり省いている。彼なりの遺族への配慮なのだろうが、一方で、自分がその殺人行為に突き進んでいく過程での猫殺しやナメクジ解剖については詳細に記述している。特に猫殺しについての描写は、人によっては読むに堪えない部分だろう。それを割愛してしまっては、自分がなぜあの犯罪に突っ走ったか何も説明しないことになってしまうという判断なのだろうが、気になるのは、そうは言ってもその描写が事細かで、書いている者の痛みが感じられないことだ。一見すると、その行為を肯定的に描いているようにも見える。

 犯罪を犯した者が、自分の犯行の描写をどう行うかというのは、その人間が自分の罪をどう捉えているか判断する材料になる。例えば私が編集者として11年間つきあった宮﨑勤死刑囚は、言動全体は社会常識から大きくはずれたものだったが、犯行現場について語る際には、「もうひとりの自分」や「ネズミ人間」といった存在が登場し、その「もうひとりの自分」が犯行を犯すのを自分は眺めていたという描写になる。

 彼の場合はある種の精神疾患にかかっていた可能性が高いから、それを考慮する必要はあるが、どう見ても、犯行現場の描写に「もうひとりの自分」を登場させるのは、自分を主語にして犯行の描写ができないことの現れだろう。「うしろめたい」という気持ちからの現実逃避である。

 逆に、かつて『創』に掲載した奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)の手記については、犯行後に女児の遺体を損壊していく様子を克明に描いていたので、編集者としてそのまま掲載すべきか頭を抱えたものだ(それについては拙著『ドキュメント死刑囚』参照)。小林死刑囚が自分の犯した罪を反省しているのかしていないのかは裁判でも論点になった。

 ちなみに前述した佐川一政氏も『霧の中』という本を出版しているが、殺害した女性の人肉を食べた後、主人公は「うまいぞ!」と叫ぶ。物理的な意味でうまいというよりも女性を殺害し食べるという行為が異性を支配・所有したことになるという意味合いだろうが、この描写も恐らく読んだ人は「この人は反省していないのでは」という印象を持ったと思われる。

 そうしたことを踏まえて『絶歌』を読むと、児童殺害の記述はないのだが、猫殺しや、児童の遺体をめぐっての描写など、この元少年Aは自分の犯罪をどう克服し得たのか、疑問を感じた読者もいたのではないだろうか。実はこのことは、この『絶歌』という本の本質に関わることだ。あちこちにふんだんに「お詫び」らしい言葉がちりばめられているのだが、この本は全体として元少年Aの「自己肯定」の本という印象を受けるのだ。

 例えば多くの論者が批判している、元少年が「なぜ人を殺してはいけないのか?」に答えを出す記述だ。元少年はこう書いている。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 殺人を犯すと自分も苦しむのだ、というのは、第三者が言う分にはひとつの答えではあるかもしれない。しかし、殺害した本人がそう言ってしまうと、読んだ多くの人は当然反発するだろう。それを言う前に、まず殺された人間や遺族の痛みや思いになぜ想像力が及ばないのだ、というわけだ。この記述に関する部分は、この本を理解するポイントだ。

 そして本の中で、この本の執筆に至る動機についても元少年Aは書いているが、自分を突き動かしているのが「生きたい」という思い、「生」への執着だと吐露している。

 これもなかなか重要なポイントで、犯行後、少年院に収容された当初「このまま静かに死なせてほしい」ともっぱら語っていたという元少年に、「生きよう」という気持ちを起させた、そのことは恐らく治療の成果なのだと思う。

 幼少期に自己肯定を得られなかった元少年が犯罪を犯した後、治療を受けて自己肯定感を持ち、「生きたい」と思うようになった。それ自体は、まさに少年法の精神に則った治療の成果なのだろう。もしかすると今のように社会に復帰してその中で生きたいともがくこと自体も、元少年にとっての長い治療のプロセスなのかもしれない。

 ただ、元少年が自己肯定を語れば語るほど、市民感覚からすれば「いや、そのことと自分なりに罪を償うこととはどういう関係になるのか」という疑問が生じるだろう。少年法は恐らく更生を成し遂げることによって本当の償いを行うという精神なのだろうが、『絶歌』を読む限りでは、元少年が「生きたい」という希望を持つことと、罪を償うという一見相反する2つの事柄についてどう整理できているのかが曖昧なのだ。読んだ多くの人が反発を感じるのはそのためだろうと思う。

 ある意味では、元少年はまだ自分が解決すべきテーマと格闘しつつある過程なのかもしれない。元少年が社会に出た後、どういう人がどんなふうにサポートしていったかという社会復帰後の事実経過を書いている第2部は、今までこういう記録がほとんどなかったという意味で貴重な素材だと思う。

 その意味でも、気持ちはわかるが、この本は置かないと決めた図書館にはその措置が正しいのかもう一度考えてほしい。そしてまた、出版の是非論争だけでなく、犯罪を犯した人間にとって「罪を償う」とはどういうことなのか、この元少年に対してどんな治療が行われ、その成果をどう考えればよいのか、多くの人が改めて議論してほしいと思う。同時に、元少年には、自分の著書がなぜこれほど大きな社会的反発を招いたのか、改めて考えてほしいと思う。

 元少年が14歳であの凶悪な犯罪に突き進んだ経過をどう捉えるべきなのか、当時の少年はわかりやすく言えばある種の病気だったのか、もしそうだとすればそれはどうやって克服されようとしているのか。そういう疑問は『絶歌』を読んだだけでは解決できない。

 例えばこの本を読んで個人的に驚いたのは、元少年を犯行に駆り立てていく契機になった慕っていた祖母の死、という問題だ。草薙厚子さんの『少年A 矯正2500日全記録』にはそのことが割と詳しく書かれていたが、例えば『文藝春秋』5月号がすっぱ抜いた「少年A家裁審判『決定(判決)』全文」では、本当に簡単にしか触れられていない。

 『絶歌』では、その祖母の死がかなり重要なきっかけとして描かれているし、元少年Aが出版社に持ち込んだという幼少期の写真は、その祖母に少年が抱かれているものだ。これとそっくりだと私が驚いたのは、宮﨑勤死刑囚がやはり最初の犯行に至る3カ月前に、慕っていた祖父の死に直面していたことだ。
 
 彼は幼少期の自分への回帰をしばしば語り、その幼少期の表情豊かな写真を、ぜひ載せてほしいと私に希望したのだが(『夢の中、いまも』に掲載)、文中の自筆のイラストでは祖父に手を引かれて歩く自分の姿を描いている。

 そしてさらに昨年7月、佐世保市で同級生を殺害し解体した女子高生の場合も、事件の何カ月か前に母親の死に直面している。親しかった人の死が契機になっていることや、殺害後被害者の遺体を解体している点など、これらの事件のあまりの共通性を考えると、それが大きな意味を持っていると考えざるをえない。佐世保事件も元少年Aの事件も、少年法の壁によって詳細な犯行に至る情報が開示されなかったのだが、その元少年が自ら社会に向けて語り始めたというのは、私は記録としては貴重だと思う。

 遺族の感情はもちろん理解しなければならないし、本を出版して大金を手に入れた元少年Aを許せないという市民感情も理解できる。しかし衝撃的だったあの神戸の事件を解明するためには、元少年Aに語ってもらうことも、意味のないことではないのではないか、と思うのだ。