宮内孝(南九州大人間発達学部教授)

概要

 ドッジボールは、小学校において体育の授業ばかりではなく、休み時間や特別活動の時間にも楽しまれている。しかしながら、ボールが捕れない子どもにとっては、ドッジボールへの実質的な参加は難しく、ドッジボールへの否定的な感情をもちかねない課題がある。

 しかも、ドッジボールは、ボールゲームの入門期ともいえる小学校低学年の子どもを対象として学習される。この時期に、ドッジボールへの否定的な感情をもたせると、その後に学習するボールゲームへの苦手意識にもつながる。ひいては、体育学習自体が嫌いという感情をもつことになりかねないことからも、この課題を解決することは極めて重要である。

 そこで、本稿ではドッジボールの教材価値について、ボール操作のなかでもボールを捕ることが苦手な子どもの学びの視点からとらえ直した。そして、そこから浮かび上がった課題解決を意図した教材配列を提示することで、今後のドッジボールの教材づくりの基礎資料を提供するものである。

1.はじめに


 ドッジボールは、小学校において体育の授業ばかりではなく、休み時間や特別活動の時間にも楽しまれている。また、日本ドッジボール協会主催の全国大会が開催されるなど、子どもたちに人気のボールゲームの一つである。

 しかしながら学校体育において、高橋が「男子中心、技能のすぐれた者中心になりがちなドッジボールを克服するためのルールのあり方、技術練習のあり方、チームの人間関係のあり方を問い直していく必要がある」(14-107頁)というように、投捕の技能が劣る子どもの実質的なゲーム参加が難しい。さらに、内村らが「ドッジボールで『ボールを投げられるのが怖い』といってゲームに参加しない児童が少なくない」(16-79頁)と指摘するように、ボールが捕れないことは、ドッジボールへの否定的な感情につながる。

 それにもかかわらず、伊藤も述べるように、ドッジボールはボールとコートがあれば、容易に活動が成立し、あたかも子どもは楽しんでいるように見えるが、投げる動作や捕る動作が身につかないことも多い(6 -20頁)。また、歌川が「体育の時間になれば、容易に『ドッジボール』というようなことが繰り返され、『ドッジボール』がクリアしなければならない問題点がなおざりにされ、ただたんに『ドッジボールをさせておけば...』というような風潮が多少なりともあったのではないか」(15-52頁)と指摘するように、教師は、既存のドッジボールのゲームを子どもに与えるだけで、後は子どものプレイを見守るような授業は少なくない。

 さて、岩田は「『素材』としてのスポーツ種目や技を、教え学ばれるべき『学習内容』を見通しながら、学習者が取り組み、チャレンジしていく直接的な課題に再構成(加工・修正)としていくプロセス」(7 -20頁)によってつくられたものが教材であるという。

 この岩田の論に依拠すると、先に述べた「既存論文のドッジボールのゲームを子どもに与えるだけで、後は子どものプレイを見守る」ような授業には、この教材づくりの視点が希薄であるといわざるをえない。すなわち、特に、ボールを投げる、捕ることが苦手といったボール操作の技能が劣る子どもの実質的なゲーム参加を保障する教材づくりが欠落しているのである。

 しかも、ドッジボールは、ボールゲームの入門期ともいえる小学校低学年の子どもを対象として学習される。この時期に、ドッジボールへの否定的な感情をもたせると、その後に学習するボールゲームへの苦手意識にもつながる。ひいては、体育学習自体が嫌いという感情をもつことになりかねないことからも、この課題を解決することは極めて重要である。

 そこで、本稿ではボール操作のなかでも、ボールを捕ることが苦手な子どもの学びの視点からドッジボールをとらえ直し、その教材づくりに関する基礎資料の提供を目的とする。

2.教材としてのドッジボールの価値


(1) ドッジボールの学校体育への位置づけ
 日本ドッジボール協会によると、明治時代には円形コートの「デッドボール」として、ドッジボールは行われていたという。攻撃の者はボールを防御の者に当てて、これを「デッド」とした。この際、防御側には捕球は認められておらず、飛んでくるボールから身をかわすだけだったという。それから、「ドッジボール」(ドッジ=DODGEとは身をかわすという意味)と改名され、内野に捕球が認められるようになった(11)。

 このようなドッジボールが、学校教育に初めて取り入れられたのは、小久保らによれば、1913(大正2年)年に発布された「学校体操教授要目」においてであるという(10-48頁)。この要目において、「デッドボール」の名称で小学校の遊戯教材の一つとして位置づけられた。

 その後も、継続的に学校体育に位置づけられ、1947(昭和22年)年に発布された「学校体育指導要綱」では、3 年生向けのボールゲームとして採用されている。さらには、1949(昭和24年)年に発布された「学習指導要領小学校体育編」には、高学年「ドッジボール」、中学年「方形ドッジボール」、低学年「自由ドッジボール」「ころがしドッジボール」が採用されている。それからの学習指導要領の改訂においても、継続的にドッジボールは位置づけられ、現在に至っている。

 このように、ドッジボールは、明治時代から現在に至るまでの長い歴史を経て、現在でも学校体育において子どもたちに親しまれている。

(2) 教材としてのドッジボール
 先に述べたドッジボールの変遷からも、ドッジボールには2つの競争目的があることがわかる。

 一つは、相手の身体をねらってボールを当てるという攻撃時の目的である。もう一つは、ボールに当たらないように避けたり、捕球したりする守備時の目的である。この目的について、戦術学習の視点から廣瀬らは、「防御面の突破(ボールを通過させることを目指して、相手にボールをぶつけること)」を攻撃の課題とし、「防御面の構築(相手が投じるボールを通過させないことを目指して、ボールを保持すること)」が防御の課題であると指摘する(4 -84頁)。

 さらに、鈴木は、ドッジボールの攻守の動きとバレーボールの動きとには、類縁性があると指摘する(2 -72頁)。ドッジボールにおいて、ボールをもった攻撃側(内野)は、自コートと相手コートを区分する境界線まで詰め寄って、相手チームの内野をねらってボールを投げつける。この時、防御側の内野はコート後方まで退却し、ボールを捕ったり避けたりする。そして、捕球すると、直ちにそのボールを持って前線まで攻め上がり、相手チームを攻撃する。

 一方バレーボールは、レシーブ→セットアップ→アタックの一連の動きで攻撃を組み立てる。すなわち、後方で守り、自コートに飛んできたボールをはじいて前線に運んで、相手コートをめがけて反撃する動きとなり、この動きが前述したドッジボールの内野の動きと同型といえるのである。

 すなわち、ドッジボールで学習したことが、中・高学年で学習するネット型の学習へと転移する可能性がある。

 このような競争目的をもつドッジボールの楽しさについて、後藤らは、「ドッジボールが子どもに人気のある理由は、動く獲物を追い込んでボールを投げ当てること、また逆に、これをひらりとかわすことにあるといえ、ドッジボールの『動く的当てゲーム』としての運動課題に妙味を感じるからである」(3 -173頁)と述べる。すなわち、ドッジボールは、ボールを相手の身体に当てる、そのボールを捕る、かわすことが楽しいゲームといえる。

 このように高い教材価値をもつドッジホールではあるが、深見によれば米国では評価が大きく分かれているという。深見は、米国の教育雑誌に掲載された 3 編のドッジボールに関する論文をもとに、米国におけるドッジボールの教材価値とその課題を紹介している(1 -62頁〜64頁)。以下、その内容を要約する。

 米国においても、ドッジボールは、子どもにも教師にも非常に人気が高い。しかも、ドッジボールは、ボール操作能力はもちろん、生まれながらにして備わっている攻撃性や支配性を上手に統制する能力や、ときにはチームのために身体を張ってみんなの犠牲になるといった理想的な生き方を教えてくれる価値があるという。

 一方で、ドッジボールは、別名「殺人ボール」「人殺しゲーム」「監獄ボール」等と呼ばれ、人を標的にしてボールをぶつけるという非教育的側面や、それにより精神的にも肉体的にも子どもを傷つける可能性があるという。また、教えるべき内容があまりなく、最も運動技術や体力を育成すべき対象である運動の苦手な子どもたちのゲーム参加の機会を奪ってしまうともいう。

 このように、ドッジボールには様々な教材としての高い価値を含んではいるが、解決しなければならない課題があることがわかる。

(3) ボールを捕ることが苦手な子どもとドッジボール
 前述した通り、相手の身体をねらってボールを当てることが、攻撃時の競争目的である。そのため、相手が投じるボールは、体幹にパスされるようなボールばかりではない。捕球の失敗を意図して、スピードのあるしかも捕球しづらい下半身などの身体を的にしてボールは飛んでくる。このようなボールが飛び交うドッジボールであるからこそ、ボールを捕ることが苦手な子どものゲーム参加が消極的になるのである。

 しかも、ボールを捕ることが苦手な子どもは、ボールがこわい、捕球できる気がしないと思い、捕球しようとしても失敗を繰り返すことに終始するだけで、捕る動きの感じや身体の動かし方を獲得することができない。そして、このような経験によって、ドッジボールは感情的に嫌い、なじめないという負の感情をもたせ、捕球を避ける逃避行動につながるのであろう。

 このような子どもたちには、目の前に示された運動に対して感情的にいやではないという「なじみの地平」(9 -159頁)に誘い込むような教材が必要になる。また、金子によれば、ある動きができる、あるいは動けるためには、「身体をどのように動かせばうまくいくのかという〈私の動きかた〉に身体中心化として収斂していくコツという身体知」(8 -326頁)と、「私の身体を取り巻く情況の有意味さをとらえ、同時にその動感志向を投射できる〈私の動きかた〉を生み出すカンという身体知」(8 -326頁)の 2 つの動感能力が必要になるという。

 このことをボールを捕ることが苦手な子どもについて考えてみると、「飛んでくるボールの動きに合わせて、いつ、どこに移動したらよいのか」といった、ボールが飛んでくる方向やスピードなどのボールの動きを読むカンと、「どのような感じで、ボールを捕ればよいのか」といった、捕る
動きの感じや、身体の動かし方といったコツが絡み合わず、捕ることがうまくできない子どもであったといえよう。

 このように考えると、「動く的当てゲーム」であるドッジボールにおいて、ボールを捕ることが苦手な子どものゲーム参加は、困難を極めることがわかる。