R25で記事になり、Twitter界隈で少し話題になったドッジボール論争。「痛いから嫌だ」「危険だから禁止したほうがいい」という気軽な意見が飛び交うTwitterならでは、みながわいわいと見解を述べ議論になっています。

 学校にまつわる話題から町内会、電車でのマナーその他、あらゆる局面で人間同士の暮らし方の違いからくる誤解や違和感、不快といったストレスがネットに放流され、共感をされたり反論されたりいろんな発言の交差点になっているのは興味深い限りです。

 これら、ちょっとした社会におけるストレスを見つけて「症候群」にしたり「違和感」を表明する仕組みはかねてからありました。いわゆる問題の再発見であり、症状の発明に近いこの現象は、ある意味で言葉を商売にする評論家や作家が世情を切り表現するための仕掛けとして、分かりやすい言葉を作り上げ、それに賛否が集まって論争になることで社会は問題そのものを消費していくプロセスになるわけです。

 ネットでの議論が盛んになると、どうしても議論が極端な方向に行きがちです。例えば、学校の組体操が危険だ、子供の怪我が多いという話が出ると、みんな危険だからそのようなものは取りやめようという議論になります。メディアも、組体操の目的が何であって、そういう体操で怪我をした子供や保護者に話を聞きにいきひとつのパッケージに仕上げていきます。

 社会が便利になると、昔からあるもので「何でこれってやってるんだっけ」というネタは大量に発掘されます。正月におせちを食べることは保存食のないころの風習だからとケチがつき、誰かが結婚することへのお祝いも現代社会の男女のあり方からすると結婚制度自体を見直すべきと問題が提起される社会になります。

 ウェブで自由に意見を表出できることも含めて日本社会が成熟してきたからこそ、問題や権利や危険に敏感になり、解決するために意見を表明したり賛否を議論することに抵抗がなくなったのかもしれません。ゼロリスク病とでも言うべき敏感な層が増えてきたのも事実だと思いますが、個人的にはそういうゼロリスク病を患っている人こそ、高度に情報化された社会に必要なタイプなのではないかと思います。

 世の中にはいろんな問題の種があって、それに対して敏感に感じ取れる人が分かりやすく問題を提起できれば、多くの人たちが「そういえば、そういう問題もあるな」と気づくのは当然のことです。そういうあまり光の当たらない事象を抉り出し、人々の裁定を行える環境で議論をすること自体が、私たちの求めた情報化社会だったのではないかと思います。

 電車の中でのベビーカー使用にせよ、集合住宅でのゴミの出し方にせよ、決め事は人間同士が円満に社会で暮らしていくために必要だから行われ、マナーも最大公約数がそれが妥当であると感じるからみんなが守るのであって、その時代時代によって人の意識が変わり、うつろうのは大事なことです。むしろ、不満や不安や不快を感じて黙っているほうが今後の日本社会では割を食う世界になっていくのかもしれません。

 いわゆるモンスター化をするような意見の表明の仕方でなければ、タブーなく何を言ってもまずは良いのでしょう。また、相手の意見を受け入れる気持ちを持ちながらも自説をしっかりと述べて議論を重ねることは意味のあることでしょう。そして、いまの日本には徐々にではありますがタブーなくきちんと意見を表出できる仕組みがたくさん出てきて、右も左も老いも若きも自分の人生観や価値観に照らし合わせて「これを言いたい」「伝えたい」ということが出てきて喋れる環境の恵みというのは本当に大事なんだと思うわけですよ。

 逆に言うならば、ドッジボールが痛いし危険だというのは私の子供のころからみんなが思っていたことでした。スポーツとして楽しいと思える子は少数で、早々に当てられた大多数の子は外野でボールを回し合っているだけの競技だったというのは感じます。それでも、禁止するほど危険でもないだろう、いやあれはスポーツとして完成度が高いのだ、という意見が出れば、考えていることと違っても「そういう意見もあるのか」と納得しつつ「じゃあどうするのか」と話題の駒を進めていけばよいわけです。

 恐らくは、こういうゼロリスク病的なこまごまとした議論を日本人が毎日消化しながら、少しずついろんな意見に慣れていき、考えを伝える練習をしていくことでもっと大きな国民的議論も醸成されていくのではないかと思います。いきなり街角で「集団的自衛権はどう思いますか」と質問されてしどろもどろになることを避けるためにも、日々の中で問題意識を持ち、一個一個の問題に自分の考えを固めて、言いたいことがあればどんどん意見をネットに出していくことで見えてくる形はあるだろうということですね。

 ウェブでの議論は壮大な暇つぶしと思われがちですが、ただ総体で見ると意外と日本人の総意の方向性ぐらいまでは分かるような気がします。リスクが少しでもあれば何でも禁止にしたければそれも意見であろうし、それはやりすぎだろう、やる側が配慮すればそれでいいじゃないかというのも意見です。大事なことは、飽きずに考えを表明し続けることにあるんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。