古田博司(筑波大学大学院教授)

 昨年は朝日新聞社の慰安婦誤報事件をめぐり、様々な検証が行われてきたが、どうもいまいちすっきりしない。いったい何がいけなかったのか根本が極められていないので、朝日以外の他社の新聞記者にまで世上を見る際の視座に不安を及ぼしているというのが現状ではないだろうか。

 「角度を付けすぎてはいけないんだ」とか、「特権振りかざすような気分はひかえなければ」とか、「一方に過剰に偏ってはいけない」とか、いくらでも教訓は引き出せるが、教訓というのは断片にすぎないから弥縫策にしかならない。

 そこで私は考えたのだが、朝日新聞のまちがいの根本は、「均衡中立性崩壊」にあるのではないか。本来、世上では様々に反対意見の集団が対峙しているし、世界では様々な国々が対立している。それがビリヤードの玉のようにぶつかり合う。そこに政治が生まれるのだが、この政治にははじめから均衡点がない。

 あれば皆がそこを目指すからいつかは平和な状況がやってくると期待することができるはずである。でもないので対話の機会を設けて互いに説得し合う。あるいは似た色の玉同士で同盟を作り、圧力をかける。どうしようもなければ局地的に少し暴れる。でも現在では熱い戦いにはなかなかならない。下手をすれば自分が滅亡してしまうことをよく知っているから、摩擦を起こしながら相手を動かしていく。

 国会中継を見ていても、昔のように議論白熱し武闘派が暴れるようなことは最早ない。みんなフリップをもってきて、ビジュアルに訴えるような形で説得する。議論や熱い戦いの時代は去り、説得と圧力、摩擦で反対側を動かしていくのである。均衡点はあらかじめあるわけではないから、先んじて中立点をつかむことはできない。中立性をつかんだ気になり、自分こそ客観的だと思うことが危険なのだ。

 中立性と客観性は明らかに別物である。反対側の相手にだって客観性はある。だからこそ反対側の人々からも説得力のある意見が当然聞かれる。

 朝日新聞社は率先してこの時代の先見性をはずしたのだと思う。はじめから均衡点があると過信する。たとえば日本と中韓もこの均衡点に向かっている。だから平和は双方が議論し、歩み寄りに努力すれば可能なのだ。

 自分はこの均衡の位置から中立的に両者を高みから見下ろせばよく見えるはずだ。それで、そうしようとするのだが、そんな場所はないのでどちらかに転がり落ちる。自分は日本人だから日本側に落ちそうになるかもしれない。頑張って落ちないようにしようとすると中韓の側に落ちる。そこで日本の平和への努力不足を批判するという無難な形でこれまでやってきた。

 朝日新聞の「日韓国交五十年 歴史の節目に歩み寄りを」(二〇一四年十二月三十日付)の社説は、日本と韓国の間で何とか中立性を奪取しようとする苦肉の策だった。あれほど世間的に批判されたのだからそうされないように、「角度を付けないように」「偏らないように」「傲慢にならないように」と、必死にやじろべいをした。

 でも慰安婦の「強制性」を否定したら負けなのでナニクソと「一方で『韓国には軍に無理やり連れて行かれた』と証言する女性がいる」と述べた。この時点で、実は韓国側に転がり落ちている。中立性など均衡点のない世界では無理なのである。でも、次もナニクソと踏ん張る。「韓国の朴槿恵大統領も(省略)日本が加害者であるからといって、ただ提案を待つだけでは問題の決着はありえない」と、韓国側もいさめてみせる。

 この時点で読者はげんなりする。こんなに相手側に転げ落ちてまで、まだ中立点に自分がたっていると信じ込んでいる愚かさが「欺瞞」という匂いで読者の鼻を衝くからである。

 そして最後に、先見性から物の見事に失墜する。よせばいいのに、「国交正常化に、安倍首相の祖父の岸信介氏は大きく関わり、朴大統領の父、朴正煕氏は国内の反対を押し切って決断した。このままでは日韓双方で当時の決断を疑問視する声さえ強まりかねない」と言ってみせた。

 今は過去になったのではっきりしているが、韓国は日米の圧力に屈し、六月二十一日外相会談をもち日本に妥協するとともに、翌日両国で催された日韓国交五十年式典に各々の首脳が出席し、韓国は日韓基本条約の基本線にもどったのである。

 朝日新聞社の一体何がいけなかったのか。これで明らかになったと思われる。それは「均衡中立性崩壊」の現代で、崩壊に気づかずに、ことさら中立性を取ろうとして日本の反対側に転がりつづけたことである。新聞記者諸兄姉には是非注意してほしい。世界にあらかじめ均衡点などなく、中立性は取れないのだ。

 どちらかに視座をしっかりと据えて、反対側の意見も無視しないことである。反対側にも客観性があることを肝に銘じ、自分がどちら側についているかしっかりと自覚して筆を執る。では、いったいどちらに付いたならばよいのか。それが先見性というものなのである。先見性から失墜すれば、当然予測を外し、せっかく正義の中立点を取ろうとした者が悪になる。朝日の誤報事件は秀才がこの先見性に恵まれていないことを秘かに暗示している。