我が国は、明治23年(1890年)に近代憲法を施行して以来、125年の長きに渡り一度も自らの手で憲法を変えた事がないという、とても特殊な国です。

 アメリカが現在の形に憲法を変えてからでも約70年、その間一度も国民レベルで改正の論議すら行われて来ませんでした。

 本来、現行憲法は我が国の主権が大幅に制限された状態下で、アメリカから来た法律の素人が日本を服従させるために考えたものなのですから、昭和27年4月28日の日本(沖縄など一部島嶼地域を除く)が主権を回復した日に、改正若しくは追認(独立しても、この憲法を使い続けるという意思確認)など、日本国民自らが何らかの意思表示をすべきでした。

 しかし、占領軍に検閲を強いられ、それが習い性になったマスコミ、公職追放によって棚ぼた式に要職に就いた官僚や学者など、日本の敗戦により得た自己の利権を守りたい人たちの手により、長らく日本国憲法は不磨の大典として扱われ、本来、国民が持っているはずの「改憲」の権利は奪われ続けてきました。

 何しろ10年くらい前までは「改憲」と一言発するだけで、条件反射のように「軍国主義者」呼ばわりされるくらい憲法は神聖視されていましたから、改正は疎か批判すること自体が禁止されていたようなものでした。

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与野党7党が鬼塚誠・衆院事務総長(左から4人目)に国民投票法改正案を提出 2014年4月8日、国会内(酒巻俊介撮影)
 驚くのは平成22年に日本国憲法の改正手続きに関する法律(国民投票法)が施行されるまで、60年以上も憲法を変える手続きが定められていなかったことです。これは、日本国民の大半が憲法を変える気がなかった、あるいは変える事が不可能と思い込んでいたとはいえ、法治国家としてはあまりにもお粗末です。

 この責任は、主権者である日本国民全員が負うものですが、中でも「新憲法制定」を結党の理念に掲げ、誕生してから約60年の間、ほとんど政権を担っていたにもかかわらず何もできなかった自由民主党をはじめとする国会議員の職務放棄に近い怠慢は特に非難されてしかるべきでしょう。

  このように戦後利権という分厚い氷に守られていた日本国憲法ですが、ここ数年で改憲に関して具体的な話ができるようになり、早ければ来年にでも国会で改憲の発議が行われる可能性が高くなってきました。そうなれば、我国において初めての国民投票が行われるわけですが、多くの国民が長らく憲法について考えることを避けてきた為、今一つ憲法に対する理解が足りないような気がします。

 今後、憲法改正の国民投票が行われたとき、憲法をよく知らないまま投票するのは、あまりにも勿体無いとしか言いようがありません。そこで、今一度日本国憲法を見直してみようと思います。

まずは、前文です。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


 ざっと読んだ感想を一言でいえば「分かりにくい」というものですが、それもそのはず原文が英語なのですから日本語の表現になじまないのは当然です。それに表現の問題だけではなく内容自体も首を傾げたくなる様なところも多々ありますので、特に気になる個所を抜き出してみます。

 『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする』
 いったい、どこの国の政府のことを指しているのでしょうか? 日本だけが何もしなければ戦争が起こらないのでしょうか?

 『人類普遍の原理』
 西欧的価値観の押しつけである、日本には日本の価値観もある。

 『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』
  確かにこの憲法が作られたときは、日本はアメリカの占領下にあり、軍隊は廃止させられていたので自身で自国の防衛はできませんでした。そのため「平和を愛する諸国民」=アメリカにまもってもらうのは当然であったと言えるでしょう。しかし、独立国となった昭和27年4月28日以降も他国に自分たちの安全と生存を委ねるというのは国家の重大な責務を放棄しているとしか言いようがありません。そして、この文言をそのまま読めば、自分たちの安全と生存を他者にゆだねているのですから、自衛隊の存在自体を問いなおさなければなりません。この前文の精神が浸透した結果、当時のアメリカが、そこまで意図していたのかどうかわかりませんが、多くの日本国民は自分で自分の身をまもることを止め、他人にまもってもらうのが当たり前だと思うようになってしまいました。  

とはいえ、ここに記されていることのすべてが、間違いというわけではありません。例えば

『専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ』
という部分です。名誉ある地位という表現は抽象的で分かり辛いのですが、おそらく、例示されているような人権侵害を撲滅するために努力するという意味なのでしょう。だとすれば至極当然のことなので、それ自体は問題ないのですが、実際の行動が伴っているかというと、そうではないと言わざるを得ません。本当に、そうであるならば、日本はこれらの人権侵害を現在進行形で行っている国家などに対して積極的にそのような蛮行を止めさせるように働きかけるべきなのですが、残念ながらそのようなことはなされていません。国益を考えて直接言うのが難しいとしても、せめて援助などの人権侵害の助けとなるようなことは行うべきではないでしょう。

他にも

『自国のことのみに専念して他国を無視してはならない』
とありますが、これも言っていることは正しいですが、実際の行動はどうでしょうか。この憲法の殻に閉じこもりながら「日本だけが平和であれば良い」と、国際社会からの危険を伴う人的支援の要請を断り、他国を無視してはいませんか。ただ単に金をばらまくだけでは、他国からの尊敬を受けることなど難しく、ましてや名誉ある地位などほど遠いでしょう。
(続く)