野々村直通(元開星高校前野球部監督・教育評論家)

 最近の母親は、自宅の洋式便器を汚したくないという理由で、子供に座って小用をたすように教えているという。男性の着座小便率が50%を越えたという調査もある。あゝ日本もここまできたかと憤慨せざるを得ない。そもそも使えば汚れるのである。汚れないように指導することがマナーを教えることであり、汚れたら磨けばよろしい。

 イエローハットの創業者・鍵山秀三郎氏が立ち上げた「日本を美しくする会」に“トイレ掃除に学ぶ会”というのがある。それはこんな言葉からはじまる。「どんなに才能があっても、傲慢な人は人を幸せにすることはできない。人間の第一条件は、まず謙虚であること。謙虚になるための確実で一番の近道が、トイレ掃除です。」この運動は今、日本中に“凡事徹底”というスローガンのもと広がりつつある。汚れがこびりつき変色した便器を素手で磨くのであるが、磨きながら心も磨くのである。

 私は高校野球の監督時代、選手に定期的にやらせた。最初は嫌がっているのだが、集中してやっていく内に何とも心が晴れやかになってくる。ピカピカになった便器は愛おしい存在となってしまうのだ。この時、自分の心も磨かれたのである。経験した者にしかわからない爽快感である。“汚れたら磨けばよい”ということの気高き本質を突いた話である。
 「夕涼み、よくぞ男に生まれけり」という川柳がある。一日の仕事を終えた夕刻に行水し、そのままパンツ一枚で夕涼みをする男の心地よさを謳ったものだ。女にはできない風景であるが、実は「立ち小便、よくぞ男に生まれけり」というのもある。今更解説はいらないだろう。幼少時、庭に積もった雪に小便で文字や絵を描いた経験がある。これも女性にはできない男の特権である。男はホース付きだからコントロール可能となる。世界中にある「小便小僧」の像は、戦争時に敵が仕掛けた導火線の火を小便で消した少年の勇気を讃えたものだという。立ちションが国家を救ったのである。

 私の学生時代、大ヒットした映画『男はつらいよ』の中で寅さんが決まって語る口上の中にはこんな一節がある。「見上げたもんだよ、屋根屋のフンドシ。粋な姉ちゃん立ち小便。」ここで客席はドッと沸くのだが、フーテンの寅さんから見ても、立ちションは“粋”なのである。(笑)

 「男女平等」社会は理想であるが、用のたし方まで男女同じにすることはない。“男女差別”と“男女区別”を同等に扱ってはならない。元来、男は狩猟に適し、女は子供を産み母乳で育てる。これは神が創造した性差である。“狩り”における攻撃的象徴がペニスであり、受動(受胎)的象徴が女性器となる。野球に例えると、バット=攻撃=とミット=守り=である(笑)。犬もオスは片足を上げ(立ちション?)小用をし、メスは地に伏せる。縄張りを示す(マーキング)オスの攻撃的本性である。

 本能で行動する幼児は、強制しなくても、男児は黒や青色のカバンを選び、女児は赤やピンクに手を伸ばす。男の子は自動車のおもちゃ、女の子は人形に興味を示す。大体においてそういう染色体を備えて神がこの世に産み出すのである。生きる価値観としての男女平等は尊重されねばならないが、性差についても同質であるかのような評論は滑稽な現象と言わざるを得ない。

 私は教職にある時、良く生徒に語りかけたのは、「男は男らしく、女は女らしく」であった。野球の指導の場面など、「おまえはそれでも男か!」「男ならやってみろ!」と気合いを入れるのが常であった。私の圧力に追い込まれた選手たちは、蒼白な顔と吊り上がった目で、「ハイッ」と精一杯の声で意気込み、戦いに挑んでいく。その訓練が“闘う集団”を形成していくのである。

 しかしながら学校現場では、人権平等教育に熱心な先生方から良く注意を受けた。私は訳がわからず困惑したことを思い出す。やはり潜在的に、男は男らしく、女は女らしくありたいと願っていると信じたい。

 掃除の手間を省くという合理性から言えば“坐って用を足す”ことは優位だが、合理的な人生など無味乾燥な人生である。「らしさ」の追究こそ人生のロマン(醍醐味)ではないか!! オスとメスとしての意地を通すことは、人生の面白味を増す。中でも男は、リスクを背負いながらも、打算ではなく“粋がって”男らしさを演出する生き物(者)でありたい。


ののむら・なおみち 
昭和26(1951)年、生まれ。広島大学教育学部卒。島根県の開星高校硬式野球部を監督として計9回、甲子園へと導く。「末代までの恥」発言で辞任したが、嘆願の署名が集まり復帰した。