戦後史開封「60年安保」※肩書など掲載時のまま


「日中への踏み石だった」と藤山外相


 政権の座についた社会党は今、日米安保条約を「堅持する」としている。日本で安保条約の意義を否定する声はほとんど聞かれなくなった。だが昭和三十五年(一九六○)、岸内閣でこの安保条約が改定されたとき、社会党をはじめ、日本中が熱にうかされたように「アンポ反対」に染まった。それは日本が成熟した国になるために通らなければならない関門だったのかもしれない。

 改定された新しい日米安全保障条約は三十五年六月二十三日午前十時二十分、東京・白金の外相公邸(現都立庭園美術館)で批准書の交換が行われ、すべての手続きを終えた。

 その夜、外務省ではささやかな打ち上げが行われた。外相、藤山愛一郎(故人)と安保騒動の苦労をともにした秘書官の内田宏(七六)=後にフランス大使、現資生堂顧問=は、藤山をねぎらうように声をかけた。

 「大臣、よかったですね。おめでとうございます」

 だが、藤山の答えは意外なものだった。

 「うん。これで中国とできるね」

 内田が「はあ?」と聞き返すと、こう続けた。

 「日米安保なんてね、日中(国交回復)をやるためのステッピング・ストーン(踏み石)なんだよ。背後の日米関係を固めておかないことには、大中国とはやりあえないんだよ」

 当時、すでに藤山と首相の岸信介(故人)との間には感情のもつれができていたといわれ、藤山も率直に喜びを表現できなかったのかも知れない。それにしても、まだ日本中が「アンポ、アンポ」で頭に血が上っているとき、すでに「次」を考えている藤山に、内田は脱帽せざるをえなかった。

 日米安保条約の改定作業は三十三年六月十二日、第二次岸内閣が発足したときに具体的に動き出した。

 藤山の回顧録「政治わが道」(朝日新聞社)によると、外相に再任された藤山はすぐ東京都渋谷区南平台にあった岸の私邸を訪ね、「安保改定をやろうじゃありませんか」ともちかけた。岸と藤山は戦前からの親友だった。三十二年首相になった岸は、文字通り“三顧の礼”を尽くして日本商工会議所会頭だった藤山を口説き、外相に迎えていた。

 藤山は「岸さんは非常に乗り気で熱心に『やろうじゃないか』と応じてきた」と書いている。

 もっとも岸自身、首相就任直後から安保改定に意欲をもっていた。首相として初めて訪米した三十二年六月二十二日、アイゼンハワー米大統領との間で発表された日米共同声明の中に「一九五一年の安全保障条約が暫定的なものとして作成されたものであり…」と将来の改定を約束する一項目を入れることに成功している。

 岸は「岸信介回顧録」(廣済堂出版)の中で「私の政治生命をかけた大事業がこのときスタートした」と勢い込んで述べているが、三十三年五月の総選挙で勝利したことが具体的行動に踏みきらせる。

 藤山は七月には駐日米国大使のダグラス・マッカーサーIIと会談、さらに八月一日には岸、藤山とマッカーサーの三者会談が外相公邸で開かれた。この席で岸は現行条約の修正ではなく新しい安保を作る意向であることを明言。「修正」で考えていた外務省を驚かせる。
国会突入を図り、警察部隊と衝突する全学連主流派の学生ら
 そしてこの年の十月から、双方の首席代表となった藤山とマッカーサーとの間で具体的改定交渉に入る。

 交渉はほぼ毎月一回外務省で行い記者発表もしていた。しかし、途中で警察官職務執行法(警職法)改正案をめぐる国会の混乱や、政府与党首脳会議で「安保改定は急がない」という意見が多数を占めるといった自民党内の意見不統一で、交渉はしばしば中断する。

 だがその一方で、藤山とマッカーサーは秘密の裏交渉も行っていた。実際には、この秘密交渉で新安保のほとんどの部分は決まっていったといってもいい。

 秘密交渉の場は東京・日比谷の帝国ホテルだったが、一方は終戦直後の日本に君臨したマッカーサー元帥のおいで長身のマッカーサー。もう一方は貴公子然としていて白髪がトレードマークの藤山。人目を避けるのは至難のワザだった。

 内田によると、マッカーサーはクリーニング用の袋に書類を入れ、ホテルの一階にあったクリーニング店に洗濯物を預ける外国人客を装ってホテルに入る。藤山の方は裏側の入り口から入り込み、ホテルの一室で合流していた。

 内田が振り返る。

 「私はいつも、自分のズボンの左のポケットをあけていて、藤山さんの帽子をかくしていました。紺色のいい帽子で申し訳なかったけれど折りたたんでね。それで、藤山さんが外に出たり帝国ホテルに行ったりされるとき、その帽子を藤山さんの頭にかぶせるわけです。何しろあの頭ですから」

 帽子の効用だったかどうか。帝国ホテルでの秘密交渉は十四、五回にも及んだというが、記者にも、反対派にもついに気付かれずじまいだった。

 交渉は三十五年一月、ようやく妥結する。

 岸、藤山をはじめ自民党総務会長、石井光次郎、日本商工会議所会頭、足立正、駐米大使、朝海浩一郎の五人の全権は羽田からホノルル、サンフランシスコ経由でワシントン入りし、調印に臨んだ。

 全権団が出発した一月十六日には、改定に反対する全学連の学生たちが羽田空港のロビーを占拠、帰国後の条約の承認・批准に向けての多難さを予感させていた。

 だが、岸らにはまださほどの危機感はなかった。

 岸について渡米した当時の首相秘書官、和田力(七六)=後にイラン大使=は、「何しろ首相も私も年末の予算編成からほとんど眠る間もない忙しさで、飛行機に乗ってぐっすり眠ったことしか覚えていない」という。

(文中敬称略)

【メモ】 日米安保条約 昭和26年9月8日、日本が独立を得たサンフランシスコ平和条約と同時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」、いわゆる旧安保が結ばれた。それまで「占領軍」の名で日本に駐留していた米軍を引き続き日本に残すための合法的措置、といった面が強かった。
 その第1条で日本は米軍が日本国内とその付近に配備する権利を「許与する」となっていたが、米軍は「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」としているだけ。このため、米軍は日本に配備するだけで日本を守る義務は明記されていない「片務的」な条約であるとの指摘があった。
 35年1月19日に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約」、いわゆる新安保はこの片務性の解消が眼目で、第5条で日米は日本の施政下の領域で「いずれか一方に対する武力攻撃が時刻の平和及び安全を危うくするものであることを認め…共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とし、米国に日本防衛を義務づけた。

 しかし、社会党などは「米国のアジア戦略に食い込まれ、戦争に巻き込まれる恐れがある」として、安保改定よりも安保そのものを否定。反対運動を繰り広げた。