先崎彰容(東日本国際大東洋思想研究所教授)

 今、「ナショナリズム」を語ることは、流行なのかもしれない。

 国家という言葉を、以前に比べ格段に私たちは口にするようになった。「この国のかたち」を考えることは、半ば当たり前のことになった。以前は、国家を口にすることに批判的だった人まで、国家を議論するようになった。鼻歌交じりの平和主義は時流にあわない、だから国家の存在については最低限認めよう――こうした雰囲気で語ろうというのだ。

 ただいずれにせよ、昨今のナショナリズムへの関心の原因が、震災など国内で相次ぐ危機だけだとは思えない。東アジアで台頭するナショナリズム、つまりは近隣諸国との不安定化もあってのことなのだ。

 最近の尖閣をめぐる問題だけではない。たとえば民主党政権時代、天皇陛下の謝罪を要求し、野田佳彦首相の「遺憾の意」を書いた親書をはねつけた当時の韓国大統領、李明博氏は、最後は竹島への上陸を断行し国威発揚につとめた。政権は朴槿恵氏に移ったが、きしみの現状は増す一方で、解消する兆しさえない。中国が防空識別圏の拡張を宣言し、韓国がこれに対抗策をうちだすなど、昨年来、東シナ海をめぐる情勢は風雲急を告げている。

 こうした東アジアの急激な緊張の背景は何か。

 もちろん、国内に抱える矛盾を他国批判でガス抜きするとは、しばしば言われる「原因」である。人びとの不満のはけ口に、他国批判は恰好の材料となろう。だがそれだけならば、これまでにもよくあったことではないか。いまの東アジアをめぐる緊張には、何か根本的で文明的な、より「巨大な原因」があるのではないか――私はそう考えている。たとえばその一例が、東シナ海と南シナ海で相次ぐアジア諸国の緊張だ。急激に大国化する中国の海洋進出は、国策による「膨張主義」に他ならない。佐藤優氏がしばしば指摘する「新・帝国主義の時代」とは、より巨大な市場を求め外へ外へと進出=帝国主義化していく状態をさす。こうした東アジア全体を巻き込んだ「膨張主義」の巨大な運動に、日本は「戦後」始めて晒されている。戦後、一貫して経済的豊かさを追求し、軍事的緊張をふくむ国家について一切の思考を停止させてきた私たちは、東アジアからドアを叩かれた。東アジアの国際秩序の変更に促され、日本人はナショナリズムを直視する時代に入ったのである。

一時的「刺激」としての国家


 そう言えば、私自身も登壇した本年元日の討論番組『ニッポンのジレンマ』(NHK Eテレ)の題目も、「僕らが描くこの国のカタチ2014」というものだった。この、若者による討論番組の主題が「国のカタチ」だったことは、とても象徴的なことである。

 番組の最中、『ニッポンのジレンマ』は次のように質問し、視聴者に意見を求めた。いわく、「あなたが一番、“国”を意識するのはどんな時ですか?」――。選択肢は次の四つである。「A オリンピックなどの国際試合」「B 選挙などの政治参加」「C 領土問題などの外交交渉」「D TPPなどの経済問題」。

 回答は、驚くほどはっきりしていた。

 今、若者たちの多くはAとCだけを、つまりはオリンピックと領土の危機をもって、国家を感じるというのである。言われてみれば、ロシアのソチ・オリンピックはこの事態をあからさまに示していた。オリンピックで高揚した気分になり、国家を意識した彼ら若者は、恐らくサッカーの国際試合でも同じ気分を味わうはずだ。

 これは当然の回答、とも思えた。なぜなら戦後のわが国は、東アジア諸国とは異なり、軍事力を徹底的に抛棄してきたからである。アメリカの庇護のもと、考える必要性を抛棄したからだ。経済の奔流と沸騰の最中、国家は溶解し、無色透明のぶよぶよした皮膚のような「クニ」ができあがった。そこで私たちは生きてきたのである。

 だとすれば、国家について考える機会はオリンピックのときか、あるいは領土問題で否応なく国境を皮膚で感じるときしか、ないだろう。両者は「瞬間的」である点で同じであり、国家は一時的な「刺激」にすぎない。

 それは国家について考える、あくまでもきっかけにすぎない。

 本来、ナショナリズムとは常にもつべき問題意識のことであり、瞬間的なものではない。経済的な豊かさで自信をもったり、その逆に不況によって自信喪失するようなものではない。

 だから、ほとんど回答のなかったB=「政治参加の仕方」と、D=「TPPの賛否」も、きわめて重要なのだ。

 今一度、まとめよう。東アジア情勢をめぐって、「膨張するナショナリズム」という問題があった。次に、テレビ出演で明らかになったのは、民主主義の問題と、生活や文化などの価値観をどう守るのか、これが重要だということだった。ナショナリズムが、生活や文化にまで根を下ろすとき、それは「戦後日本」を超える。「膨張するナショナリズム」とは全くちがうナショナリズムが、今、求められている。生活や文化に根ざしたナショナリズムを考える段階に、わが国は直面しているのだ。

 そのとき私たちはどのような「言葉」で、この世界を、日本を語るべきなのか。今、言葉の態度も問われている。

全体主義とナショナリズム


 そう思って、私は昨年『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)を世に問うたのだった。

 膨張主義時代に晒された私たちは、どのような危機にあるのか、そのときナショナリズムの役割とは何か――東アジア情勢とテレビ出演は、その思いをさらに強くさせた。

 私の基本的な考えはこうだ、「ナショナリズムは外交問題でも政治問題でもなく、死をめぐる問題であり、私たちにとって最大の問い――どう生きるのか、死とは何か――死生観、倫理学にまとわる問いだと、心の底で合点がいく」(31―32頁)。
国会突入を図り、警察部隊と衝突する全学連主流派の学生ら
 つまり国家とは、法や制度、政治や外交だけでは語りきれないのであって、死者たちが紡いできた伝統や習慣を守り、思いをめぐらすことなのだ。それはきわめて落ち着いた「くらし」を守る営みに他ならない。「死生観、倫理観」とは、そういう意味である。

 このような態度で国家を考えること、それが私のいうナショナリズムである。

 その重要性を証明し、後押ししてくれる思想家たちの「言葉」を、以下で追いかけてみる事にしたい。

 注目すべき時代は決まっている。

 あの戦争を経験した人間たちの言葉である。死がもっとも身近なものになる戦争体験は、人間を「思想家」にする。

 まずはナショナリズムを、帝国主義の問題から考えた思想家がいた。政治学者のハナ・アーレントである。彼女の精密な帝国主義分析は、現在の東アジア情勢の「巨大な原因」を探るのに役立つ。

 彼女が眼をつけたのは、1884年から1914年までの帝国主義の時代であった。その特徴は、「膨張」あるいは「拡散」といった言葉でイメージできる動きである。それはあたかも、モーターが駆動し続けるように新しい市場を目指して膨張することを善とみなす。それに成功したのは、イギリスとフランスであった。

 また、ドイツ・ファシズムとスターリニズムにも、彼女は注目した。イギリスやフランスに後れをとったドイツとロシアは、現状への不満の気分と「負い目」の意識をもった。他国に比べて「遅れ」ているという意識、これが怒りの気持ちを増幅させる。負い目と怒りの感情は、激しい現状否定と、秩序の変更欲求へと駆り立てる。世界各地に散らばり、憂き目をみている同胞たちの結束という現状変更への欲望、すなわち「血」による結びつきの強調が浮上してくるのだ。散らばった同胞の結集――これもまた「膨張主義」がもたらす危険な結末なのである。

 アーレントは、これらの国々の「膨張主義」が、最終的には「全体主義」を生みだしたと結論した。そして全体主義とナショナリズムは全くちがうものだとも、主張した。なぜならナショナリズムとは、領土、民族、国家を「歴史的」に共有するからだ。歴史とは、つまり時間の積み重なりのことに他ならない。

 一定の場所の「くらし」と、土地での記憶を人びとが分かちもつことで、ナショナリズムは生まれる。

 だとすれば、「膨張するナショナリズム」など、あり得ない。それはナショナリズムではない、全体主義と呼ばれるべきなのだ。

 みずからが今いる場所、課された条件を宿命として受け入れたとき、人の心は安定する。それは充たされた心だ。それがナショナリズムのつながり=連帯感を根本で支えている。現状にたいする怒りと不満、膨張へのあこがれとは無縁の心の構えが、ここにはある。

 全体主義とナショナリズムの違いを描くこと、これが決定的に大事だとアーレントは思った。そうすることで彼女は、時代を診る医者になったのである。