昭和35(1960)年6月19日午前0時、日米安全保障条約改定案が国会で自然承認された。在日米軍に日本の防衛義務さえない旧安保条約の不平等性は大幅に解消されたが、日米同盟の強化を危ぶむ旧ソ連や中国の執拗(しつよう)な対日工作もあり、旧社会党や総評(日本労働組合総評議会)、全学連(全日本学生自治会総連合)などは「米国の戦争に巻き込まれる」と扇動した。国会周辺は連日デモ隊で埋め尽くされ、岸信介首相は退陣に追い込まれた。
 あれから55年。国民の意識は大きく変化し、内閣府の世論調査(平成26年)では、日米安保条約を支持する人は8割を超える。国会周辺の風景も大きく様変わりした。風化しつつある「60年安保」の記憶を秘蔵写真でたどる。

 ≪5・19 乱闘国会「野戦病院」≫


 安保改定阻止に向け、社会党などが激しく抵抗する中、政府・自民党は衆院での強行採決を決めた。昭和35年5月19日午後11時5分、清瀬一郎衆院議長は警官隊を国会に入れ、ピケを張る社会党議員らを排除し、50日間の会期延長を可決した。大乱闘となった国会ではけが人が続出、さながら野戦病院となった=写真(1)。清瀬氏本人も左足を負傷し、おんぶで議長室と議場を移動した=同(2)
 日付が変わった20日午前0時5分に再び清瀬氏は本会議を開き、安保条約改定案を可決させた。疲れ切った清瀬氏がソファに体を横たえ、記者団の取材に応じたのは午前0時50分だった=同(3)


写真(1)


写真(2)


写真(3)


 ≪6・10 ハガチー事件の衝撃≫


 岸信介首相が日米安保条約改定案の国会承認を急いだのは、昭和35年6月19日にアイゼンハワー米大統領の来日が予定されたからだった。ところが、事前協議のため6月10日に来日したハガチー米大統領新聞係秘書(現大統領報道官)とスティーブンス大統領秘書官らが乗り込んだ米大使館のキャデラックが、羽田空港近くの弁天橋手前でデモ隊に囲まれ立ち往生してしまう=写真(1)、右がハガチー。約1時間後、ハガチー氏らは米海兵隊のヘリコプターで救出=同(2)=されたが、これを機にアイゼンハワー来日は中止された。


写真(1)

写真(2)

 ≪途切れぬ緊張 6・15攻防≫


 日米安保条約改定案の自然承認を昭和35年6月19日に控え、国会周辺は緊迫の度を増した。警官隊は連日国会に大量動員され、食事時も現場を離れることを許されなかった=写真(1)。15日夕には警官隊の放水を浴びながらデモ隊が国会突入を図り、カメラマンたちもズブぬれで取材に当たった=同(2)。デモ隊は次第に暴徒化し、バリケード代わりだった警察車両は横倒しにされ、放火された=同(3)。こうした中、東大4年生の樺(かんば)美智子さんが死亡した。

写真(1)
写真(2)
写真(3)

 ≪昭和35年(1960年) 6・18→現在≫


 日米安保条約改定案の国会での自然承認を数時間後に控えた昭和35年6月18日、社会党などが主導する安保改定阻止国民会議は、「岸内閣打倒」などを掲げた国民大会に33万人(主催者発表)を集めた。その後、国会デモに繰り出し、うち4万人は徹夜で座り込んだ=写真(1)
 集会場所となった千代田区隼町の広大な空き地は、米軍住宅「パレスハイツ」跡地で、昭和33年11月に返還された。現在は最高裁と国立劇場が建っている=同(2)

写真(1)

写真(2)