柿谷勲夫(軍事評論家)

 日米相互協力及び安全保障条約(以下、日米安保条約)は、50年前の昭和35年(1960年)1月19日に署名、6月23日に難産の末効力が発生した。我が国は当時貧しかったが、自衛隊と日米同盟によって国の安全が保たれ、経済的には飛躍的に発展した。

 しかし、鳩山由紀夫首相は、核安全サミットではオバマ米国大統領と公式会談もできず、ワシントン・ポスト紙から「最大の敗者」などと酷評され、同盟が危殆に瀕している。

 さらに深刻な事態は、この50年間、我が周辺諸国、特に中国の軍事力は飛躍的に拡大、核保有国にしても、日米安保条約署名時点ではアメリカ、ソ連、イギリスの三カ国だったが、35年2月にフランスが、39年に中国が、今や北朝鮮までが保有、我が国は独自では対処できない。だが、日米同盟によって安全が保たれたため、政府や国民から国家防衛意識が喪失し、脅威を脅威と感じない恐ろしい状態に陥っていることである。

安保騒動とその背景


 自民党の小池百合子議員が1月22日の衆院予算委員会で、笑みを浮かべながら、一部の閣僚に安保の頃、何をしていたかを質していた。名指しされた閣僚も「70年安保」当時の学生運動の体験を、笑みを浮かべて答えていた。この風景をテレビで見て、タイムトンネルを通って50年前に遡った。

(1)辻参謀の「ダンス糾弾事件」と講演
 筆者は52年前の昭和33年、防衛大学校(第六期)に入校した。入校前年の32年12月14日、防大ダンス同好会(あかしあ会)が東京ステーションホテルでダンスパーティを開いた。元陸軍大佐・大本営参謀の辻政信衆院議員の令嬢にも招待状が届いたとのことで、辻議員は受付も通さず、「竹下いるか」と会場に怒鳴り込んだ。

 「竹下」とは、防大における自衛官の最高位である「防大幹事」の元陸軍中佐の竹下正彦陸将補(後、陸将)である。敗戦時の陸軍省軍務局軍務課員で、陸相・阿南惟幾大将の義弟、ポツダム宣言受諾に反対し、阿南大将の割腹にも立ち会ったとされる、辻氏と並ぶ「歴史上の人物」である。

 その様子を竹下氏が『槙乃實 槙智雄先生追想集』で「会酣なる頃、果然辻政信代議士が現われ、私を呼び出して、『防大生がダンス会を開くとは何事ぞ、君が括然としてそれを許し、この会に参加しているとは何事ぞ』と詰問し、私が、『防大生がクラブ活動としてダンスパーティをもつことを悪いとは思わない』と返答するや、興奮の末、いずれ国会の問題としてとり上げ、議場で当否を決着しようといって引き上げたのである」と述べている。

 翌年3月7日、槇校長が衆院内閣委員会に参考人として呼び出され、辻議員から防大生のダンスパーティは問題だと追及され、校長はダンスは立派な社交を教えるために必要などと説明した。本事件は「防大生、東京のど真ん中で半裸の女性とダンス」と騒がれたが、ダンスをする防大生は少数派で、筆者は郷里(石川県)の大先輩・辻議員に軍配を挙げる。

 その辻議員が、筆者が入校して間もなく、防大を訪れ講演した。ノモンハン事件から大東亜戦争の体験、戦場での心得を述べ、最後に「戦争に負けて、多くのものを失い、申し訳ないことをした。しかし、どうか日本精神は失わないでもらいたい。日本精神さえ失わなければ、〇〇や××(具体的な地名を挙げたが、あえて言わない)はいつでも取り返すことが出来る」と述べた。それまで静粛に拝聴していた学生から一斉に大拍手が起こった。筆者も掌が破れんばかりに叩いた。だが、現実は日本精神が失われ、韓国に竹島がロシアに北方領土が不法占領されたままで、対馬や尖閣諸島も危なくなっている。当時拍手した一人として慙愧に堪えない気持ちである。

(2)米兵で溢れる街と岸首相の核発言
 筆者が防大に入校した頃、東京湾にはアメリカの空母を含む艦艇がひっきりなしに行き来し、横須賀の街に外出すると米海軍の下士官兵で溢れ、日本女性がぶら下がって歩いていた。戦争に負けるとはこういうことかと思った。米軍の最下級の水兵の給料が、我々の指導官(将校)と概ね同じと言われた。

 だが、そのような時期でも、入校直後の4月18日、岸信介首相(当時)は参院内閣委員会で「私は、核兵器の発達いかんによっては、今言うように防御的な性格を持っておるような兵器であるならば、これを憲法上禁止しておるとは私は解釈はしない」と、将来の核保有に含みを残す発言をしていた。

(3)女優の来校と作家の防大侮辱
 入校して約2カ月後、才媛の誉れが高い美人女優の有馬稲子さんが来校するとの噂が広まった。当時、「税金泥棒」「憲法違反」などと言われた自衛隊、「有馬稲子が来るはずがない」と思った。ところが、驚いたことに来校した。同期生の記念写真帖(卒業アルバム)には、辻議員や次に述べる中曽根康弘氏の写真は見当たらないが、有馬さんの写真は「学生との談笑」と「竹下幹事にインタービュー」の2枚が載っている。

作家、大江健三郎氏=昭和46年
 有馬さんと防大生が懇談している写真と記事がある新聞に載った。これを見て嫉妬でもしたのか作家の大江健三郎氏は昭和33年6月25日付毎日新聞夕刊のコラムに「女優と防衛大生」との見出しで「ぼくは防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」と防大生を侮辱した。

(4)防大生に安保を訴えた中曽根氏
 自衛隊や自衛官を侮辱しても世の中から非難されることはなかった。そのような雰囲気の中、昭和35年を迎え「60年安保」騒動が起こった。筆者が3年生の時である。

 日米安保条約は、署名から4カ月経った昭和35年5月20日未明開会された衆院本会議で、小沢佐重喜安保特別委員長(当時)の委員会審議の報告後、直ちに自民党単独で可決承認された。因みに、小沢委員長は、戦前、東京市会・府会議員、戦後、吉田内閣の運輸相、郵政相兼電気通信相、建設相、池田内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官などを歴任、民主党幹事長・小沢一郎氏の実父である。

 衆院で採決されると、共産党、社会党、朝日新聞などのマスコミが一斉に非難、国会周辺は連日デモ隊で埋まり、安保といえば反対、自衛隊といえば反対の大合唱。ほとんどの大学で授業がストップ、まともに講義が行われていた大学(校)は、防衛大学校などごく僅かで、デモ参加中の東大の女子学生が死亡した。

 騒動の少し前の4月、韓国では3月に行われた大統領選挙に不正があったとして、大学生が抗議のデモを起こし、大学教授や市民に拡大、いわゆる四月革命で李承晩政権が倒れ、李大統領はハワイに逃れた。

 岸首相(同)は「声なき声の支持がある」と述べたが、防大生までがデモに参加すれば、大変な事態になり、政府が転覆する恐れもある。慰撫する必要があると考え、中曽根科学技術庁長官(同)を防大に差し向けた。赤城宗徳防衛庁長官(同、徳彦元農水相の祖父)を派遣するのが筋だが、中曽根氏が最適任と考えたのは、氏が40歳を少し出たばかりの元海軍少佐で、当時「青年将校」と言われていたからであろう。

 防大学生隊は当時、一個大隊約400人から成る五個大隊編成だった。現在、入校式や卒業式に使用している立派な大講堂はなく、学生全員を収容できる場所としては体育館と食堂しかなかった。中曽根氏は形式的な訓示を行うため来校するのではない、内閣総理大臣の特命を受けての使者である。

 学校当局は、体育館や食堂では、「特命」を賜る場所としては適当でない、或いは広すぎると判断したのであろうか、中講堂(大講堂はなかったが、「中講堂」と称した)に選んだ。

 但し、中講堂の定員は約500人、一個大隊しか入れない。学校職員と筆者が所属する第三大隊学生隊が中講堂に集合、第三大隊以外の学生は全校同時放送で聞いたものと思う。当時のことを数人の同期生に問うと、50年の歳月が流れたためか、第三大隊所属の者は覚えていたが、第三大隊以外の者は記憶が定かではなかった。筆者は当日のことを今日も鮮明に覚えている。

 中曽根氏は颯爽として登場、被っている帽子を無造作に取り、二十数歳年長の学校長が恭しく受け取った。容姿端麗「これが青年将校中曽根か」と思った。中曽根氏は、次のように学生に訴えた。

《●自分はかつて海軍少佐だった。国家防衛を志し、日夜勉学、訓練に励んでいる諸君たちの気持ちが良く分かる、敬意を表する。
●強行採決をしたため、世の中は騒然としている。これは大手術後、臓器が所定の位置にないが、間もなく元の位置に戻るのと同じで、混乱が静まるのは時間の問題である。
●日米安保条約は、我が国の平和と独立を守るために必要であり、戦後を脱却して発展するために不可欠である。
●諸君たちの校長・槇先生の出身校である慶応義塾の創設者・福沢諭吉は、幕府と薩長の銃声の中、講義を続けた。世の中の騒動に惑わされず、勉学と訓練に励んで貰いたい。
●訪米した折、アメリカ軍の将校に「諸君たちが、政府の行為に納得できず、反対する場合はどうするか」と質問すると、「その場合は、軍服を脱いで行う。つまり退役してから行う」との回答が返ってきた。諸君たちが、政府の行動に反対する場合は、退校してからやるべきだ。
●政治の悪魔性……。(記憶が曖昧。中身がよく理解できなかった)》

 最後に、「何か質問があるか」と問いかけた。筆者は3年生であるので遠慮したが、数人の学生が質問した。中曽根氏は「今の質問は、野党の諸君の質問よりも本質を突いている」と持ち上げた。

 中曽根氏の情熱は学生に伝わった。中曽根氏も学生の雰囲気を目の当たりにして安堵、「防大生は大丈夫」と岸首相に報告したと思われる。

 安保条約成立を契機に、アメリカのアイゼンハワー大統領が来日の予定だった。何処からともなく、防大生が羽田空港に出迎えるとの噂が伝わって来た。噂が本当であれば、防大生と全学連との対峙が予想され、若い血潮が躍り、親のすねかじりの道楽息子を徹底的に痛い目に遭わせてやろうと思った。

 だが、6月10日、大統領来日の打ち合わせに来たハガチー氏と出迎えたマッカーサー駐日大使が、全学連や労働組合などのデモ隊に襲われ、海兵隊ヘリで脱出するという不祥事が発生、政府は大統領の身に万一のことがあったら大変と判断、来日は条約成立直前中止となった。

 安保条約は6月19日成立した。その時、我が中隊は学校に連接する旧軍の砲台跡地で野営していた。ラジオから「安保が自然成立しました」との興奮した声が聞こえ、これで一段落したと思った。岸首相は退陣、池田勇人氏が首相に就任した。

(5)大学の自衛官迫害
 左翼陣営はあきらめず、10年後の昭和45年の廃棄を目論み、自衛隊に治安出動命令が下る可能性があった。

 筆者は昭和37年、防大を卒業、幹部候補生などを経て、39年から41年の青年将校(三尉から二尉)の頃、大阪大学大学院修士課程に学んだ。「60年安保」と「70年安保」の中間であり、日韓基本関係条約の締結が昭和40年だった。

 筆者など自衛官は、左翼学生から嫌がらせを受けた。例えば、左翼学生が、筆者が自衛官と知った上で、校門で「安保反対」「日韓会談反対」「自衛隊反対」「自衛官大学院入学反対」などのビラを差し出す。「要らない」と言って受け取りを拒否したり、彼らが見ている前で破り捨てたりした。学内の食堂にも同様のビラが貼ってあり、ビラを見ながらの昼食は極めて不愉快だった。

 ある自衛官学生が登校すると、机の上に「〇〇三尉殿、伊丹の自衛隊から電話がありました」との置手紙、自衛隊に電話すると「電話していない」との返事、幼稚な嫌がらせである。

 筆者が夜、実験をしていると「自衛隊反対」などと言いがかりを付けに来る。決して一人では来ない。ある日、論争の最中、「自分は自衛隊に戻れば、小隊長としてデモ鎮圧にあたるであろう。君たちの顔を覚えておく、どこに逃げても、逃がしはしないぞ」と言った。それ以降、筆者に対する態度が変わり、おとなしくなった。

 幹部自衛官は、東大を除く京大など国立大学大学院に入学していたが、昭和40年頃多くの大学当局が学生運動の圧力に屈し、少なくとも筆者の現役中、受験の辞退を求めたり、願書を送り返すなど、自衛官の教育を受ける権利を剥奪した。

(6)ゼンガクレン長官
 安保騒動当時の我が国は経済的に貧しく、成績が優秀でも全日制高校に進学できず、働きながら定時制の高校に進んだり、弟や妹の面倒を見るため就職したりした孝行息子や娘が珍しくなかった。中学を出て就職して夜学の高校に進学、卒業後自衛隊に入隊、通信教育で大学を卒業、幹部候補生学校に合格した同期や、中学を出て「少年自衛官」となり、防大に進み、陸将になった後輩もいる。

 防大在学中、支給される「学生手当」の中から親に仕送りしていた同期生、大学院在学中、昼食を節約して「奨学金」や「バイト」で得た中から親に仕送りしていた学部の学生もいた。

 大学に進学できたのは「体制側」の子弟で、彼らの大半は安保の意味を知らず、一部の左翼に踊らされ騒動を起こし、高卒主体の警察官が治安に任じていた。その証拠に、騒動に参加していた加藤紘一氏が、防衛庁長官を終えて10年近く経った平成6年11月3日付の産経新聞で「安保の中身を知っている者は百人に二人もいなかった」と白状している。

 騒動に参加した学生は卒業後、日米安保条約のお蔭で米兵と一部の国民(自衛官)に国の防衛を委ね、自身は兵役を逃れ、ある者は中央省庁に、ある者は大企業に、ある者は大学の教官などに就職し、高級官僚、大企業の役員、大学教授、政治家、大臣になって権力を振るい、退官後は多額の年金をもらい、優雅な日々を送っているであろう。

 当時の学生には濃淡の差があるが、DNAに「反安保」「反自衛隊」が摺り込まれ、現在に至るも潜在している。その例が右に述べた加藤氏や次の項で述べる鳩山内閣の閣僚である。それにしても、防大生に安保の必要性を訴えた中曽根首相(当時)が昭和59年11月、騒動に参加していた加藤氏を防衛庁長官に任命した。加藤氏のDNAに「反自衛隊」が残っており、数々の“職権濫用”をした。

 例えば、訓練を視察して「軍事用語が解らない」と文句を付け、帝国陸軍以来の伝統ある数個の用語が消滅した。筆者は当時、陸上幕僚監部教育訓練部の教範・教養班長であり、60年12月某日、長官に対する陸幕長の説明に随行した嫌な思い出が甦る。その10日後、内閣改造があり“ゼンガクレン長官”がいなくなると喜んだが、中曽根首相は留任させた。加藤長官は翌61年、雑誌の対談で自衛隊の実情を述べた方面総監を更迭した。中曽根氏が25年前、防大生に述べた「政治の悪魔性」の意味を理解した。