【続・革新幻想の戦後史 第1回】


竹内洋(関西大学教授)

 連載を再開するにあたって60年安保後の空気についてふれてから出発したい。この点については『諸君!』最終号(2009年6月号)「進歩的文化人の変身」の後半部で一部ふれている。しかし、今回はじめて「革新幻想の戦後史」に接する読者もすくなくないだろう。最初に理解していただきたいところなので、既発表の部分を大幅に加筆して展開している。読者のご寛恕をお願いしたい。

社会党は大敗北のはずだった


 60年安保闘争は、戦後最大の反対運動のうねりをもたらした。安保改定が自然承認(衆議院では可決されたが、参議院は混乱を懸念して議決が回避されたので、衆議院可決後30日で自然承認)されたのが6月19日だった。その10日ほど前(6月10日)までに成人人口の半分の1800万人の安保改定反対署名が集められた。6月4日の反対運動参加者は全国で560万人を数えた。ところが、同月23日に新安保条約批准書交換がおこなわれ、岸信介首相が辞意を表明したあとは、あれほどの盛り上がりをみせた反対運動が急速に萎んだ。つよかった安保改定反対意見さえも急速に勢いをなくしていった。それを世論調査でみたものが(表1)である。

 1960年3月の世論調査では、安保改定の新条約を「よくないと思う」36%が「よいと思う」22%を上回っていた。しかし、安保改定条約が批准交換された約1ヶ月あとの安保改定発効と安保改定反対運動への評価は(表1)の下欄のようなものとなった。安保の発効を「よい」とするものと「やむをえない」とするもので、49%。「よくない」の22%よりもかなり多い。おなじことは安保改定反対をめぐる政治ストや全学連の行動の評価にもみられる。どちらも、「よくない」が「よい」と「やむをえない」の合計よりもかなり多い。

 安保闘争を闘ったのは社会党を中心とする革新勢力だったが、革新勢力の代表たる社会党人気の低落をあらわすものだった。6月末から青森県、埼玉県、群馬県の知事選挙がおこなわれた。社会党は安保闘争でもりあがった革新団体が選挙で大きな力になると期待したが、いずれも大差で敗北した。勝間田社会党教宣局長は、群馬県知事選の敗北のあと、「党としては安保反対闘争だけでなく、もっと農漁村の信頼を受けるような政策をかかげねばならない」(「三連敗、社党に打撃」『朝日新聞』1960年7月28日)とコメントさえしている。この知事選挙の4ヶ月ほどあと(11月20日)に、第29回総選挙がおこなわれることになるが、世論調査では、社会党の敗北が予想されていたのである。

 安保新条約の批准交換と岸内閣退陣のあと、7月19日、低姿勢をうたい文句に池田勇人政権が誕生した。政権誕生まもなくの8月1、2日に『朝日新聞』は、池田内閣をどうみるかの全国世論調査をおこなっている。池田内閣を「支持する」が51%で「支持しない」(17%)を大きく上まわっている。

 さらに今後選挙があれば、どの政党の候補者に投票するかをみると、自民党は43%で、社会党22%と民社党五%をおおきく上回っている。「どの政党が一番好きですか」を時系列でみると、安保改定強行採決直後には保守と革新がほぼ拮抗していたのが、このときの調査では、完全に自民党が盛り返している。自民党35%、社会党17%。社会党は20%を切るにいたっている。1955年の社会党統一以来の朝日新聞全国調査で社会党支持が20%を割ったのは、はじめてである。支持色をくわえると社会党は25%だが、同じ集計法をとれば、自民党は49%にもなる。

 ところが事前予想とちがって社会党が辛うじて、もりかえしたのは、総選挙投票日(1960年11月20日)の40日ほど前(10月12日)に浅沼稲次郎委員長が山口二矢に刺殺されるという事件によって、社会党への同情票が集まったからである。沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫、2008)には、浅沼刺殺の報をうけて自民党と民社党の政治家連が、これで選挙が不利になると青くなる場面がつぎのように書かれてある。
野党議員が抗議する中、自民、公明両党の賛成で安全保障関連法案を可決した衆院平和安全法制特別委=7月15日午後

 民社党の衝撃の深さは自民党以上だった。浅沼の死を福島の遊説先で聞いた書記長曽禰益(そねえき)は「しまった」と叫んだ。今まで議会主義を危うくする加害者という立場であった社会党が、浅沼の劇的な死によって、一挙に同情すべき被害者の立場を獲得してしまった。日本人の情緒的な性格からすると社会党に圧倒的な同情が集まり、そのあおりを受けて、民社党は苦戦するに違いない、と思えたのだ。

民社党の惨敗


 民社党委員長西尾末広は、この日(10月12日)、浅沼とともに日比谷公会堂での三党首立会演説会に臨んだ。演説の順番は、西尾が最初で、浅沼稲次郎、池田勇人とつづくことになっていた。西尾は、安保闘争における社会党の行動を議会制民主主義を破壊するものだとして「赤い社会党」を激しく非難した。小論冒頭の世論調査でみたように、新安保条約批准交換と岸信介の首相退陣表明の後は、むしろ新安保賛成者がふえる勢いだった。そんなことからも、西尾は演説にそれなりの手ごたえを得て、降壇した。浅沼が刺殺されたのは、西尾のあと浅沼が登壇し、演説をはじめて20分ほどたったときのことである。西尾は車の中で浅沼刺殺のニュースを聞いた。「そこで曾禰とまったく同じ言葉を呟」くことになった。

 その1ヶ月ほどあとの11月20日、総選挙がおこなわれる。曽禰や西尾の危惧どおりの結果となる。自民党は、公認候補だけでみると選挙前の議席よりも9議席増、無所属からの自民党入党者2名によって300議席となった。社会党は前回(1958年5月)の総選挙では、167議席獲得したが、党が分裂して、社会党議員のうち40人が民社党にうつった。総選挙直前の社会党議席数は、127議席だったことになる。そこからみると、選挙によって解散前よりも18議席上回った。民社党は選挙前には80人当選とぶちあげていたが、改選前の40人にもはるかにとどかず当選者17人で惨敗だった。

 民社党の社会党攻撃が死者(浅沼社会党委員長)にムチを打つ所業とうつってしまった。民社党が曽禰や西尾が危惧したように、いかに打撃を受けたかは、つぎのような比較をすればよくわかる。

 前回の総選挙(1958年)のとき、社会党から立候補し、かつ今回も立候補した者をつぎのふたつのグループにわける。ひとつは、今回も社会党で立候補したグループI。もうひとつは、今回は民社党から立候補したグループIIである。前回選挙は、グループIの平均得票が5万6千票、グループIIの平均得票が5万7千票。つまり、民社党にうつったグループのほうがわずかであるが、選挙につよかったということになる。ところが、今回の選挙で、グループI(社会党で立候補)の平均得票数は6万1千票、グループII(民社党で立候補)の平均得票は4万7千である。今回はじめて社会党で立候補した者でも平均得票数は4万9千だった(西平重喜「第二九回衆議院総選挙の結果」(『自由』1961年1月号)。社会党を議会制民主主義の破壊者として批判した民社党が浅沼委員長の死による同情によって大きな打撃を受けたことがわかる。山口二矢の行動は、その意志に反してかえって社会党を延命させるものとなってしまったのである。