石原千秋(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)

 2015年上半期の芥川賞受賞作が決まった。羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』と又吉直樹『火花』である。特に後者は、すでに数十万部発行されている「お笑い芸人」の作品だったこともあって、候補に挙がるかどうか、受賞するかしないかと、前から話題になっていた。

芥川賞を受賞した又吉直樹氏の「火花」が収録されている
文学界、羽田圭介氏の「スクラップ・アンド・ビルド」が
収録されている文学界(左から)=7月16日、東京都
千代田区の帝国ホテル(鴨川一也撮影)
 こうなると「売らんかなの思惑が見える」とかなんとかケチをつけたがる人々やマスコミが出てくる。かつてのみすず書房の社長のように、「売れる本はダメな本だ」という偏屈者が一定数いることは、社会にとって健全なことだ。もっとも、多くの場合は「話題作」に流される「大衆」を見下すことで、「大衆」を見下す自分を一段高みに置きたいだけの俗物でしかないのだろうが。僕自身がそうだから、こういう心理はよくわかる。

 芥川賞に限らず、文学賞に対する誤解もあるようだ。芥川賞それ自身に「価値」があるという思い込みである。だから、「この作品は芥川賞に値しない」というような言い方が出てくる。こういう思い込みにある程度の妥当性があることは否定しないが、根本のところで間違っている。あえて言えば、芥川賞は器にすぎない。

 一口に文学賞と言っても、新人賞と芥川賞は性格が異なっている。新人賞はまだ活字になっていない文章を受賞作として活字化するのだから、「この文章で世に送り出すのは、かえって気の毒だ」という判断があっていい。つまり、「該当作なし」があってもいい。しかし、芥川賞はすでに活字になった小説を候補作として事前に公表するのだから、「該当作なし」は失礼である。

 それより重要なことは、ある小説を「芥川賞受賞作品」として歴史に刻む役目が芥川賞には確実にあるということだ。なぜなら、芥川賞は時代を映す鏡だからである。極端に言えば、芥川賞の「価値」はそこにしかない。「該当作なし」では、そのもっとも重要な役目を放棄したことになる。選考会議で「今回は『受賞作なし』でいいのではないか」などと発言する選考委員がいたとしたら、芥川賞の歴史上の役割が理解できていないのだから、すぐに降りた方がいい。

 このことは、僕にとって『火花』が面白い小説であることを意味するわけではない。平均的な小説でしかないと思っている。要するに『蒲田行進曲』のパターンで、お笑いコンビ「スパークスの徳永」が「あほんだらの神谷」を慕い続ける話である。徳永は「この人に褒められたい、この人には嫌われたくない、そう思わせる何かがあった」と思うのだが、こういうことを直接書いては「説明」にしかならないし、そもそもその神谷にちっとも魅力がないのだから困惑するばかりである。

 その頃、神谷さんが嵌まっていたのが、パンツを脱ぎ、「若手の、若手の、若手の、登竜門!」と言いながら、でんぐり返しで、僕に肛門を見せつけることだった。

 べつに面白くないし。ごくふつうの若者の悪ふざけ程度だろう。

 神谷さんは、窓の外から僕に向かって、「おい、とんでもない漫才思いついたぞ」と言って、全裸のまま垂直に何度も飛び跳ね美しい乳房を揺らし続けている。

 これがラスト。こういう持続テイストの終わり方は今の流行で、いかにも「小説してます」感が漂っている。

 誤解のないように、確認しておく。僕は『火花』は芥川賞に値しないなどと言っているのではまったくない。『火花』は芥川賞を受賞したその瞬間に、「芥川賞受賞作品」としての価値を持つ。そしてその瞬間から、『火花』を高く評価できないことは、『火花』の問題ではなく芥川賞の問題となる。芥川賞が『火花』の価値を保証するのではなく、『火花』が芥川賞の「価値」を決めるのだ。現在の芥川賞の社会的な地位は、これまでの受賞作が作ってきたものだ。それが「芥川賞は器にすぎない」ということの意味であり、歴史の重みというものである。『火花』はその歴史に加わったのである。

 だから、僕はいかなる作品であっても、受賞を祝福する。それが「いま」を受け入れることであり、歴史を受け入れることでもあるからだ。