常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師)

出版文化の多様化か、劣化か


 「キミは又吉直樹の『火花』をちゃんと読んだのか?」

 私はまず、声を大にしてそう問いかけたい。

 「お笑い芸人ピース又吉直樹が純文学を書いた」「それが掲載された『文學界』が史上初の大増刷となった」「又吉直樹の『火花』が芥川賞に選ばれた。お笑い芸人としては初の受賞」「『火花』は大増刷され、100万部を突破した」などと言った、「景気の良い話」が話題になる。

 「出版不況」という言葉が使われるようになって久しい。ただ、「不況」という言葉は、もともとの定義は「景気循環の一局面で、経済が停滞している状態」ことを指す。私がこの言葉を聞くようになってから、十数年以上経つ。もはや「不況」ではなく、出版業界は「衰退産業」と言って良いのではないか。売上ベースで言うならば、昨年(2014年)の書籍や雑誌の推定販売額は1兆6065億円だった。ピークだった1996年から約4割減。実に1兆円以上も縮小している。私の研究テーマの一つは、雇用・労働問題、なかでも新卒学生の就職活動だが、この「出版不況」は「就職氷河期」という言葉と使われ方が似ていると思う。言葉が生まれ、使われ始めた頃よりも、その後の状況がさらに悪化していったという意味においてである。

 こんな時代にお笑い芸人又吉直樹氏の『火花』が芥川賞を受賞し、大増刷となった件を、私はどう受け入れるべきか、非常に戸惑っている。前述した通り、出版業界にとっての大きなニュースではあるのだが、これを出版文化の多様化と呼ぶべきか、劣化と呼ぶべきなのか。

 まず、私が不思議に思ったのが、「又吉直樹、文学」「又吉直樹、芥川賞」という言葉はよく見かけたのだが、作品の内容や感想に関するコメントをあまり見かけなかったことだ。一応、帯には「芸人の先輩・後輩が運命のように出会ってから劇は始まった。笑いとは何か、人間が生きるとは何なのか。」とあるのだが。もちろん、「ネタバレ」を防止する意味もあるだろうが、あくまで「又吉直樹」「純文学」「芥川賞」という言葉がひとり歩きしていったように思う。

読んだ上で「若き老害」からの苦言


 読まずに語るのは失礼なので、担当編集からこの論考を実質半日という厳しい納期での執筆を要求されるというスリリングなスケジュールの中、私はこの本を読んだ。3月に発売された際に書店で購入して以来、「積読」状態になっていたこの本を初めて開いた。なんせ、私自身、売れているからという理由で手にとっただけである。そもそも、私はお笑いをまったく見ない人だ。ピースも又吉直樹も実は見たことがないのだ。

 文芸は素人という前置きをさせて頂いた上で、感想を言わせて頂くならば、なかなかの佳作だと感じた。「純文学」だと言えるクオリティだったとも思う。想いが伝わってくる話でもあった。真面目そうな印象のお笑い芸人の主人公徳永、やはり芸人で破滅的な先輩である神谷の対話は、生きる、働くとは何かを問いかける内容であった。やや自分語りだが、私は会社員を15年やり、その途中で著者デビューし、3年間フリーランスで活動したあと、この4月から大学の専任教員となった。特にここ数年は、自分の才能と魂で、自分で自分を支えて食べるということとはどういうことかを考え、悩み続けたこともあった。そんな自分と重なることもあり、共感した次第である。言ってみれば、著者の又吉直樹が生きている、普段見ているお笑いの世界を描いたものではある。とはいえ、内容は見事な青春劇だったと感じた。中編は初めてとのことだったが、ならではのパッションも感じた次第である。

 というわけで、駄作では決してないし、面白い作品ではあった。とはいえ、「若き老害(ラジオやネットでの私のニックネーム)」としては、ここで苦言を呈さざるを得ない。やはりこれは、内容以上に又吉直樹が書いたからこそ話題となり、売れてしまったのではないかと。本業は小説家ではない者が受賞することについては、疑問を感じざるをえない。文学賞の選考システム、あり方に問題があるのではないかと思ってしまう。さらに言うならば、日本の文学について層の薄さを感じてしまう。

中身より「プロフィール」


芥川賞を受賞したお笑いコンビ「ピース」又吉直樹さんの「火花」を並べた売り場=7月17日、大阪市北区の紀伊國屋書店梅田本店(村本聡撮影)
 ここで、そもそも文学賞とは何かということを確認したい。これは「賞」なのか「ショー」なのか。「出版不況」が慢性化する中、徐々に「ショー」の役割が増しているのではないだろうか。

 芥川賞に限らず日本の文学賞に対する「なぜ、これが受賞してしまったのか?」という疑問は、今に始まった話ではない。作品そのものよりも「戦後最年少」「戦後最年長」「元歌手」「女優」「普段は会社員」などのプロフィールが話題となる。石原慎太郎が『太陽の季節』で受賞した際も、作品の内容もそうだが、「学生作家」というプロフィールも話題の一つだった。今回の、「史上初、お笑い芸人が受賞」という件もまさにそうだろう。私は、各者の作品を否定するつもりはまったくないが、とっくの昔から、作品の中身よりも、作者のプロフィールに注目が集まるというものになっている点をまず指摘しておきたい。

 また、芥川賞に関しては「純文学の新人を世に出す賞」という機能が期待されている。だから、別に「完成度が高い」もの「だけ」が評価される世界ではないことも確認しておきたい。

 やや不確かな話であるが、この賞は、もともと菊池寛氏が立ち上げたわけだが、日本でも権威のある文学賞を作りたいという想いを抱きつつも、彼には文学が売れない時期に販売促進したいという下心もあったという説を文学に詳しい方に聞いたことがある。「さもありなん」という話ではある。

違いがわからなくなってきている賞の意味


 それぞれの文学賞の位置づけ、棲み分けも問題だ。もともと芥川賞(純文学)と直木賞(大衆文学)の境界が曖昧だと言われていた。約10年前から「書店員がもっとも売りたいと思う本」を選ぶ「本屋大賞」も設立され、すっかり定着している。明らかに違うコンセプトのはずだったのだが、これもまた、他の賞との違いがわからなくなってきている。2015年度の本屋大賞は直木賞受賞作『サラバ!』(西加奈子 小学館)が2位に入り話題となったが、これは作品の強さだけではなく、賞の意味の違いがわからなくなってきていることを示してはいないだろうか。

 この又吉直樹の芥川賞受賞をめぐっては、テレビ朝日系「報道ステーション」でキャスターの古舘伊知郎が「芥川賞と本屋大賞の違いがわからない」と発言し、ネット上では炎上気味になったという。燃えてしまったのは、作品を読まなかったことを公言したことや、彼のキャラもあると思うのだが、とはいえ、私はそんなに間違っていることを言っているようにも思えないのだ。

 今回の又吉直樹の受賞に関しては、『文學界』掲載時から、ややあおり気味の、売らんかなという姿勢が気になっていた。芥川賞受賞を受けての大増刷もそうだ。これもまた、最近の傾向で、大増刷自体をニュースにしてしまうという手法である。又吉直樹は受賞会見で「僕の本を読んで、別の人の本も読んでくれたらいい」と語ったという。いや、これは又吉直樹の本が話題になったのであって、純文学ブームがきたわけでも何でもないだろう。その又吉直樹の本も、在庫の山になってしまわないかと心配してしまう自分がいる。

 多様な著者が純文学を書くことを私はまったく否定しない。これもまた多様性、層の厚さとも言える。北野武や松本人志をはじめ、お笑いの枠にとらわれない天才はいる。又吉直樹もそうだろう。だが、今回の受賞の件が変わった著者に純文学を書かせるゲームに化してしまわないかと私は危惧している。

 これが日本の文学界の現実だ。あなたはどう思ったか。

 そういえば、水嶋ヒロの『KAGEROU』という本もあったなぁ。