市川真人(文芸批評家、早稲田大学文学学術院准教授)

 iRONNAとその読者のみなさま、はじめまして。ときどきサイトは拝見しながら、この編集長さんとはあんまり気が合わなさそうだなとか、この執筆者は好き、とか外野で勝手に野次っていたら、ボールがまわってきてちょっとびっくり。まあお手柔らかにお願いします。

 で、届いたボールには「『火花』は芥川賞にふさわしいのか」という質問がまず書いてありますが、最初に確認しておけば、芥川賞は年に2回選ばれる純文学の新人賞で、作品を読んで「この著者は立派な文学者になりそうだよ」いう小説家を、複数の選考委員が合議の結果選び出す賞です。

 いわば、三歳馬が出走条件のダービーのようなもの。そこで圧勝した馬が、馬齢が上の馬と走るGIでも勝ってスター街道をゆくこともあれば、クラシックは辛勝したものの四歳以降は鳴かず飛ばず、なんてこともあります。そもそも年に2度ある賞ですから、「10年にひとり」の新人は計算上は20回に一回しか出ないわけで、プロ野球を例にするなら「どこの誰が見ても圧倒的な、歴史に残るスター(の卵)」と「一軍で十分に活躍できて、その球団のファンは愛して止まない主力選手」、どちらもがオールスターに出る資格はあるわけですから、ハンカチ王子的な期待の若手で終わるか、イチロー的な世界をまたぐ文学者になるかは歴史が判断するにせよ、又吉直樹という新人が今年のオールスターに出場しても、別におかしいことはない(おかしいというほど、毎回の芥川賞が特別ではない――というのは過去の受賞作一覧を見ていただければ、忘れられた名前も多いことでわかる――)というわけです。

 それでは、ボールにもうひとつ書かれていた質問「話題づくりという観点」ですが、なにやら炎上しているという古舘伊知郎さんの「芥川賞も本屋大賞も一緒になっちゃったね」的な感想も、あながち的外れではないんです。そもそも、芥川賞と直木賞を創設した文豪・菊池寛の目論見が「話題になること」でしたし、芥川賞がいまほどメジャーになったのは、テレビが普及してみんながこぞって見ていた時期に、当時一橋大学の学生だった石原慎太郎という、いかにもバズりそうな設定のイケメン(だったんですよ、若いころは)が受賞したころ以降ですから、よく言われることですが「賞はショウ(SHOW)」、どんな賞でも話題になることがその大事な機能のひとつです。

 今回の『火花』の場合も「文學界」での雑誌発表以来、著者が(読書家の)一流芸人としてメディアに知られるひとだということで、小説の中身とはかならずしも関係なく話題になったり注目されたりもしてきたわけで(『火花』の評価をめぐるぼくへの取材で、「ところでどんな小説なんですか」と聞いてきたひとが少なくないのが象徴的ですね。まさか著者本人にはそうは聞かないでしょうが…ちなみに、個人的には『火花』の会話と、笑いの手法を裏返して哀愁を作ってるあたりに、著者ならではの技術を感じます)、「話題になる」ということと、「それが文学作品として優れている」ことは、基本的には言うまでもなく別のことです。だから、その点では芥川賞も本屋大賞も、なんならイグノーベル賞も同じ機能を持っている。
芥川賞の受賞が又吉直樹さんと羽田圭介さんに決まった=2015年7月16日午後、東京都千代田区の帝国ホテル(鴨川一也撮影)
 ただ、古舘さんがついコボしたように、歴史的にも芥川賞がちょっと特別なのは、「話題になる」ことと「文学として優れている」という、ぜんぜん関係ないことがひとつに結びつく、稀有な機会である(こともある)ためです。たとえば、同じく発表される直木賞は「エンターテインメントの小説として優れている」ことが基準なので、その基準と「売れること≒話題になること」とのあいだに、矛盾が存在しません。売れ方の方法論が違うけれど、最近の本屋大賞も同じです。

 でも、「文学として優れている」ことは、たとえば「個人と社会の関係について深く洞察がなされている」とか「未来の文学の可能性を拓く、技術的に刮目すべき実験が行なわれている」とか、「いまは売れていないかもしれないけれど、千年後の世界にも読み継がれるはずだ」とか「稀有に倫理的である」とか「目をそむけたくなるほど不道徳的である」とか、そういうたぐいの基準になるので、「話題になる」こととはあまり相性がよろしくない。『火花』に書かれていたことで言えば、「共感しやすさ」と「話題」は結びつくけれど、「共感しづらさ」はそうではない、ということです(だからまあ、その意味では古舘さんの炎上も、ちょっとブンガク的なのかもしれませんし、逆に、多数派が優位に立ちがちなネット議論との相性はそれほどよくはない、とも言えます)。

 本来は結びつきづらい両者を、芥川賞という特殊なシステムが結びつけてきた、そのことが芥川賞の功績なのだとぼくは考えていますが、だからこそ、それが近い将来の「売れる小説家」ではなく「優れた文学者」を見いだすためのものであることは、忘れてもなくしてもいけない(それゆえ選考委員たちは「芸人であるというのは関係なく選んだ」わけですし、たとえ200万部売れたとしても出版社も著者もそのことに惑わされてはいけません)。

 文学者というのは、「おもしろいお話を提供してくれるひと」ではなくて、ひとりの個人がどう生きるか、世界とどんな関係を結ぶかを考え、実践するひとです。ただ小説家であるだけなら政治も経済も哲学も宗教も教育も知らなくてもいいし、思いつきででたらめを言ってもおもしろければそれでよいけれど、文学者はそうではない。又吉直樹という、芸人としての才能も持ったひとに期待されているのは、まさに、その後者であることでしょう。彼がそういう存在になったとき(そしてその影響力を正しく活用したときに)はじめて、2015年7月16日に行なわれた今回の授賞が「ふさわしかったのだ」と、誰もに伝わるはずです。