小和田哲男(静岡大学名誉教授)

歴史研究は、通説を疑うことから始まる。最近では斎藤道三の国盗り、山本勘助の実在、北条早雲の年齢や伊豆討入りの年などが見直され、書き替えられてきた。そして今、織田信長も新たな人物像が提議されている。まずは問題とされている4つの点について、紹介しよう。
 

書き替えられていく戦国史


 旧来の秩序を壊し、戦国乱世を切り拓いた「破壊者」――。日本史上、最も有名な男と言っても過言ではない織田信長に対して、多くの人がそのような人物像を思い浮かべることでしょう。

 しかし近年、そんな従来のイメージに囚われない、「新たな信長像」が提議されています。特に昨年(平成26年〈2014〉)は、立て続けに関連書籍が刊行されました。私も一研究者として非常に興味深く、また「破壊者である信長」にカタルシスを覚える方が多いだけに、今までと異なる信長像を主張する方々には、勇気を感じずにはいられません。

 とはいえ新史料の発見、あるいは史料の解釈の変化によって、これまで常識として語られてきた「通説」が改められることは、歴史研究ではしばしばあります。たとえば、「美濃の蝮」こと斎藤道三、「戦国の先駆け」北条早雲などはその典型例でしょう。

 斎藤道三は、京都妙覚寺の僧侶から油売りになり、さらに美濃の土岐氏に仕えて、一代で美濃の主にのし上がったとされてきました。しかし、岐阜県史の編纂の過程で新たな六角氏の文書が見つかり、「『斎藤道三』の国盗りは、実は父子二代がかりで行なわれたものだった」と、ガラッと見直されたのです。同様に甲斐武田氏の家臣・山本勘助も、実在を否定的に考えられていましたが、昭和44年(1969)発見の「市河家文書」に名前が載っていたことから(文書での名は「山本菅助」)一転、今では「山本勘助はいなかった」と唱える人はほぼいなくなりました。

 一方、個人的に非常に印象深いのが、北条早雲のケースです。早雲といえば88歳の長命を保ち、むしろ「老いてから活躍した武将」という印象を持たれがちでした。ところが、現在では史料の解釈が変わり、64歳で没したとする説が一般的となり、出身も伊勢の素浪人ではなく、備中の伊勢氏が定説となっています。さらに伊豆討入りの年も、従来は延徳3年(1491)とされてきましたが、今では明応2年(1493)と書き替えられています。この伊豆討入り年の見直しは、私か30年ほど前に唱えたことがきっかけでした。

 大学で教鞭を執っていた頃、私は常々学生に「これまでに習ってきたことは知識としては大事だけれども、そこに縛られては駄目だよ」と話してきました。歴史研究は、通説を疑うことから始まります。1つの仏像も光の当て方で顔が異なって見えるのと同じように、ある事柄に対する理解も、別の角度から光を当てることで、しばしば新たな発見に出会うことができるのです。

 ただし、「歴史の書き替え」は、ある程度の時間を伴って行なわれます。早雲の伊豆討入り年の新説にしても、認められるまでに10年ほどかかりました。戦国史研究の大家・鈴木良一先生は、自著『後北条氏』(有隣新書、1988)で「明応2年・1593年とする小和田哲男説に惹かれるが、しばらく通説に従う」と記しています。通説を改める際には細心の注意を伴う検証が必要であり、同時に少なからずの躊躇もあるでしょう。誰かが新説を唱えて突破口を開き、そこにフォロワーが現われ、緩やかに受け入れられてゆくものなのです。

これまでの信長、これからの信長


 そして現在、戦国史研究で注目を集めているのが「織田信長に、どの角度から光を当てるか」ということです。ここではまず、これまで信長はどのように語られてきたか、次に現在ではどのような点で、従来の信長像に疑問が提示されているかを見ていきましょう。

 戦前、信長は「勤王家」としての側面が強調されてきました。伊勢神宮の式年遷宮の復興や、皇居の築地を直した逸話などが盛んに語られ、『織田信長文書の研究』(吉川弘文館)という資料集をまとめられた奥野高廣先生の研究がその代表例となるでしょう。

 しかし敗戦を経て、いわゆる皇国史観が取り払われた結果、1人の武将、あるいは政治家として信長をどう見るかが考えられるようになりました。戦後しばらくは軍国主義へのアンチテーゼとして、武将研究が停滞したこともあり、昭和40年代に入ってからのことです。その中で、次第に信長の先進性が論じられ始め、「時代の寵児」としてのイメージが定着するのです。

 戦前は、信長に限らず戦国武将は、どちらかといえば軍記物などをもとに語られてきました。もちろん、軍記物にも見るべき点はありますが、「研究」という意味では限界があります。そこで昭和40年代から、古文書をもとに研究するスタイルが定着していきました。現在も、史料をどう読み、どう捉えるかが検証され続け、信長に関して言えば「突然に時代の寵児が現われた」のではなく、先行する戦国大名たちの良い部分を上手に取り込みつつ、自分なりにアレンジして躍進した側面が強調され始めたのです。

 次に具体例として、信長に関して現在、問題とされている主な4つの点を、私の個人的な見解とともに紹介しましょう。

◆信長が目指した「天下」の概念
和歌山県海南市の民家に保存されていた織田信長の朱印状
 戦国史において従来、「日本全国」を指す言葉として「天下」が用いられてきました。しかし近年では、「天下」とは主に「畿内」を指す言葉とされています。そして各大名は日本全国の統一など目指しておらず、単純に自国の領土を拡げることのみに注力していたとする考えが一般的になってきているのです。

 また、信長は美濃を手中にするや、「天下布武」の印判を用い始めたことから、その時から全国統一の野望を抱いたと語られてきました。しかし、この際の「天下」も、「日本全国」を意味しないとする解釈が広がっています。

 とはいえ私個人としては、やはり信長は「天下布武」を掲げた瞬間から全国統一を意識し、その点で武田信玄や上杉謙信ら他の戦国大名と一線を画す存在であったと考えています。信長は後に畿内周辺どころか中国の毛利氏、四国の長宗我部氏と相対しました。あれだけの軍事的規模と、同時並行で各所に戦いを仕掛ける姿からは、畿内や近国を押さえるだけでなく、「その先」を見越していたと感じずにはいられません。

◆足利義昭、室町幕府との関係性
 信長は「天下布武」を掲げた後、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を15代将軍につけて幕府を再興します。従来は、当初から室町幕府体制の打破を目指しており、義昭と手を結んだのも傀儡政権を築くためであった、とされてきました。ところが近年、信長と義昭は「良きパートナー」であり、最終的に決裂したのは義昭が信長を裏切ったからで、信長は本来、室町幕府を転覆させようとは考えていなかった、とする見方が有力です。

 しかしこの点に関しては、従来の説も捨てきれないのではないでしょうか。確かに、信長と義昭は以前から言われていたような険悪な関係ではなかったのでしょう。それでも私は、信長は当初より義昭をトップに置きながらも、自らが実権を握ろうとしていた、つまり「傀儡政権」樹立を目論んでいたと考えています。信長は、義昭から管領や副将軍の役職に就くことを打診されていますが、これを拒みました。後々、幕府体制を打破する時に、謀叛人と誹られるのを避けるためであれば、この行動も腑に落ちます。

◆朝廷との関係性
 信長は正親町〈おおぎまち〉天皇に誠仁親王への譲位を迫り、天皇の大権である暦についても、尾張の暦を採用するように提案しています。以上から信長は、朝廷に圧力を加え、既存の秩序を破壊しようとしていたと見られてきました。

 しかし今は、天皇を一貫して重んじていたと考えられ始めています。譲位はむしろ正親町天皇自身が望んだもので、改暦も現行の暦は不吉の象徴である日食を正しく予測できず(実際、本能寺の変前日の日食は予測できていませんでした)、天皇にとって宜しくない、と考えたとするのです。私も、この点については同じ考えで、従来の朝廷との関係性は見直されるべきでしょう。

◆なぜ、信長は「全国統一」に近づくことができたのか
 信長が掲げた「天下」の意味や、幕府や朝廷との関係性がどうであれ、彼が全国統一に迫ったことは確かです。近年、信長の「先進性」に異が唱えられていますが、この点は揺るがぬ事実であり、「なぜ、信長だけが他の大名とは異なり、全国統一に目を向けることができたのか」は戦国史の大きな命題でしょう。

 私は、「真実の信長」を紐解くカギは「経済力」だと考えています。詳細は別稿に譲りますが、信長の原動力は「富の力」でした。義昭からの副将軍の提示を蹴った信長は、一方で堺と近江の大津、草津を直轄地にします。普通の大名ならば権威を欲するでしょうが、信長はあくまで「実利」を取りました。トップがこうした合理的な思考を持てばこそ、織田家は飛躍的に成長し、畿内に留まらず全国を視野に入れる「余裕」を持てたのでしょう。

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 とはいえ、現在の「定説」も10年先、20年先には疑問が投げかけられ、いくつかは改められているかもしれません。それは研究が深化するという意味で、歴史学にとっては喜ばしいことです。定説とはあくまで「現時点での有力説」に過ぎず、絶対的に正しいということはありえません。研究が進むにつれて、今までの常識が覆るような新発見に出会えることも、歴史学の醍醐味といえるのではないでしょうか。

おわだ・てつお 静岡大学名誉教授。1944年、静岡市に生まれる。1972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある。