渡部裕明(産経新聞論説委員兼編集委員)

 日本史の分野で、「人物」に対する関心が深まっている。伝記や評伝の新たな出版が相次いでいるのだ。最も伝統がある吉川弘文館(東京都文京区)の「人物叢書(そうしょ)」シリーズで新作が話題になっているほか、ミネルヴァ書房(京都市山科区)の「ミネルヴァ日本評伝選」、山川出版社(東京都千代田区)の「日本史リブレット人(ひと)」などが続々、刊行されている。清文堂出版(大阪市中央区)からは今年3~7月に『中世の人物 京・鎌倉の時代編』全3巻が出た。いずれも最新の研究成果が盛り込まれ、歴史ファンにはうれしい限りだ。

脇役にもスポット


 「中世史への関心が高まり、研究成果も蓄積されている。成果をきちんと残すタイミングだったんです」

 『中世の人物』の編集を手がけた清文堂出版の松田良弘さん(50)は言う。同社は平成17年から1巻で多くの人物を取り上げる『古代の人物』シリーズ(全6巻)を刊行中で、手応えも感じていた。

 3巻が対象とした時代は、「ムサ(武者)の世」の到来を告げた保元元(1156)年の保元の乱から鎌倉中期まで。取り上げた人物は約80人にものぼり、後白河法皇、平清盛、源頼朝といった有名人はもちろん、関白で白河法皇に追放された藤原忠実(ただざね)や清盛と提携した藤原邦綱、幕府御家人の千葉常胤(つねたね)、宇都宮頼綱ら渋い脇役にもスポットを当てている。

 また清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)と妻の二位尼(にいのあま)、鳥羽天皇の皇女の八条院、2代将軍・源頼家の娘の竹御所(たけのごしょ)ら史料の少ない女性も対象に。法然や貞慶(じょうけい)、重源(ちょうげん)、叡尊(えいそん)ら仏教者を、社会の変革に関わった人物として取り上げているのも新しい視点だ。

 「この時代に関しては、従来の武士のイメージが完全に塗り替えられるなど、研究の進展が著しいのが特徴です。それに対応するため、執筆陣に若い研究者を迎えました」。第1巻『保元・平治の乱と平氏の栄華』の監修にあたった京都大学の元木泰雄教授は胸を張る。
出版が相次ぐ人物伝シリーズ。手前が『中世の人物 京・鎌倉の時代編』全3巻。上は左から「ミネルヴァ日本評伝選」「日本史リブレット人」「人物叢書」

新シリーズ続々と


 日本史の人物伝といえば、昭和33年に刊行が始まった吉川弘文館の人物叢書シリーズが最も有名だ。1冊で1人の人物を紹介し、これまでに278冊が出ている。高名な研究者が執筆し、信頼性が高い一方、対象が戦前までの著名人に限られる上、いまだ出ていない人物も少なくない。

 それでも最近では年5冊のペースで刊行され、2年前に出た池上裕子著『織田信長』は、目立った売れ行きを示した。同社取締役編集部長、一寸木(ますき)紀夫さんは「徳川家康や豊臣秀吉ら超有名人も、まだ出せていません。それに刊行から年月が経過し、記述が古くなるのが悩みのタネ」と打ち明ける。

 これに対し、平成15年からスタートしたのがミネルヴァ書房のミネルヴァ日本評伝選シリーズ。古代から近現代まで幅広く対象にしており、比較的自由な著述が特徴。現在、138冊が出ている。さらに21年からは、山川出版社が日本史リブレット人を始めた。コンパクトで読みやすく、こちらは50冊が刊行されている。

 いま、伝記や評伝の出版が相次ぐのはなぜだろうか。ミネルヴァ日本評伝選の監修を務めている京都大学の上横手雅敬(うわよこて・まさたか)名誉教授(日本中世史)は「日本史ブームが根底にあるのはもちろんだが、歴史を動かすのはやはり人間だ、ということに行き着いたのではないか」と話す。

 さまざまな歴史的事件を知ろうと思ったとき、それに関係した人物の人となりや生涯を丹念に探る。このような視点で見直すとき、物言わぬ歴史も読者の前に新しい魅力的な姿を現すということなのだろう。

「虚像」打破期待


 『中世の人物』全3巻を、関心の赴くまま読んでみた。まずは執筆者の多くが30、40代の若い研究者ということが目を引く。そしてそれぞれの評伝に、コンパクトな副題が添えられていることも理解を助ける。これが、執筆者が最も主張したいことだからだ。

 平清盛を執筆した大阪大学の川合康教授は、副題を「『おごれる』権力者の実像」とした。清盛はかなり長期間にわたって後白河法皇や藤原摂関家との協調を重んじたことが書かれており、専制政治家のイメージは「平家物語」によってできあがったことがよくわかる。

 藤原頼長は「保元の乱」を起こした人物だが、中国の古典に精通した大学者としても知られる。歴史にif(もしも)は禁句だが、筆者である京都府立大学の横内裕人准教授による「彼の政治が実現していたら、日本中世の道のりはどのような行程を辿(たど)ることになったのだろう」との問題提起は斬新だ。

 清盛亡き後に平氏を率いた平宗盛は「凡庸で無能な人物」の評価が定着しているように見える。しかし、責任感を持って後白河法皇とも政治的に対決した「闘うリーダー」(国立歴史民俗博物館の田中大喜(ひろき)准教授)だったとする著述にも、目を開かされた。

 歴史ブームの中で、手垢のついた評価は飽きられ、新しい人物像を求める声は日々、高まっている。新しい史料や視点に基づく人物伝の出版は歴史ファンの喜びであるとともに、研究者同士の刺激にもつながる。出版不況が言われて久しいが、後世に読み継がれる良書が今後も生まれ続けることを期待したい。