金子拓(東京大学史料編纂所 准教授)

 のっけから恐縮だが、題を裏返してみる。「信長は革命者であった」。そう言われると、たしかにそのとおりと感じる人が多いのではあるまいか。

 兵農分離を実行し、専門の軍隊をつくった。楽市楽座を奨励して自由な経済政策を推進した。いくさにおいて画期的な鉄炮戦術をとった。最終的には自己を神格化しようとし、将軍はおろか天皇さえ超越しようとしていた。複数の権力が併存するような中世社会から脱皮し、武家権力者による全国統一政権を志した。織田信長のこの志は本能寺の変により途中で潰えたが、そのあとを引きついだ羽柴秀吉・徳川家康によって統一政権は完成した。

 「大うつけ」と称される青年の頃の奇矯な身なりや、父の葬儀での型破りのふるまい。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をあざやかに破った「奇襲」攻撃。長島一向一揆に対する非道ともとれる虐殺。比叡山延暦寺への容赦ない焼討ち。空前の豪華さを誇った安土城。

 これらのことをすべて含めて、織田信長を、この時代、いや日本史上に突出して強烈な個性をもった人物であると見る人は多く、その人気は衰えをしらない。彼の人物像をひと言で「革命者」と呼ぶのなら、それを敢然と否定することはできそうにない。

金華山麓の岐阜公園内には若き日の織田信長像が
設置されていた=2010年5月(竹川禎一郎撮影)
 ここで題を元に戻してみる。「信長は革命者ではなかったのか」。誰しもが疑っていなかったようなことを疑おうとしている。そのときはじめて、「では『革命者』とは何を意味するのか」ということばの定義に対する疑問が浮上してくる。

 たしかに乱世によって各地に独自の権力をもった戦国大名が出現するなか、そのひとりでもあった信長の登場によって室町幕府が一時的に復興し、世の中が京都を中心とした「天下」に収束する動きを見せはじめた。最終的にはそうした状況が江戸幕府につながってゆく。信長没後三十年程度で確立された江戸幕府の姿を知るわたしたちにとって、結果的に信長は時代の流れを大きく変えるきっかけをつくった「革命者」であったと考えることは可能である。

 しかしそのいっぽうで、最近の研究では、先にあげたような楽市楽座・兵農分離のような信長の先進性を示すといわれた政策、自己神格化の志向などに疑義が呈されている。「革命者」を根拠づけていたような個々の特徴が、「実はそうでもなかった」とされるようになってきたのである。

 一研究者としてのわたしも、この流れから無縁ではない。ただ、それとは別に、個人的な研究関心から近づいていた信長と朝廷との関係についての主題にかかわる史料を読んでいるうち、信長は天皇・朝廷を本気でつぶそう(あるいは超越しよう)などとは考えていなかったのではないかと考えるようになり、さらに、「信長は、秀吉や家康が目的とし、成し遂げたような〝全国統一〟など考えていなかったのではないか」と感じるようになった。

 しかしわたしは研究者であるから、この感覚を感覚だけに終わらせず、学問的に実証し、受け入れてもらわなければ意味がない。たんなる居酒屋談義に終わってしまう。突飛な考えだとは思ったが、日本史研究者という職業を十数年つづけて身につけているはずの職業的直感にも、いちおうの自負はある。知り合いの研究者何人かにこの突飛な考えを話すと、最近の革命者信長像への懐疑という潮流もあってか、お話にもならない愚論と否定されるどころか、そうなのかもしれないと賛同してくれる人もいて、いくぶんかの勇気をもらった。

 ただ、史料からわかることをひとつひとつ積み上げて明らかになったことを論じるという自分自身の研究姿勢からは、革命者信長像を覆すという大きな議論ができそうもない。ひとまず信長と朝廷の関係を掘り下げて考えてみることで、信長が天皇や朝廷に超越しようとしていたといった考え方に反論を提示するところから、信長像の再考を提起してみたい。そうして書いたのが『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書)であった。

 右の新書と、そこでの叙述の土台になった史料分析に関する論文をまとめた論文集『織田信長権力論』(吉川弘文館)によって、信長は天皇・朝廷を超越するどころか、室町将軍にかわる「天下人」として支えようとする義務感を持っていたことを明らかにしえたと思っている。

 いま書いた「天下人」ということばについても説明が必要だろう。最近では「天下」の空間を日本全国というより、畿内とその周辺に限定して用いられた語句として捉える考え方が浸透しつつある。もちろん「天下」の概念はそれだけに固定化されず、より柔軟に、全国を意味して使われたばあいもあれば、時間の経過によって信長自身が使うばあいもより広域な空間を指すようになったという指摘があり、これを否定するつもりはない。

 ただ、信長が本気で〝全国統一〟を考えていなかったのではないかという仮説に、この「天下」概念の限定的な理解は強力な裏づけとなる。信長の伝記的記録を編述した家臣太田牛一の『信長記』(信長公記ともいう)のなかで、牛一はこれを「信長公天下十五年仰せ付けられ」たことの記録であると書いている。別に書かれた異本には「信長京師鎮護十五年」を書いたと説明されている。つまり牛一の認識では、「京師鎮護」(京都を守ること)が「天下を仰せ付け」たことにほかならないのである。信長の「天下」は思った以上に狭いのかもしれない。

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅座りしままに食ふは徳川」という有名な狂歌がある。信長が目指し挫折した全国統一事業を秀吉が受け継ぎ、家康が完成させた。全国統一という目標に対し三英傑がリレーして実現に至ったとみなすこのような考え方を〝天下餅史観〟とでも呼んでみよう。

 ところがそもそも信長は全国統一を考えていなかったという仮説にもとづけば、〝天下餅史観〟は成り立たなくなってしまう。秀吉は、当初から信長の全国統一事業を引きつごうとして(天下を獲ろうとして)明智光秀を討ち、清須会議にのぞみ、さらに織田信雄・信孝らの遺子たちや柴田勝家らとの権力抗争を戦い抜いたわけではない。右の過程のどこかの時点で、旧主信長の考えにはなかった全国統一という目標を見いだし、そこにむけて舵を切ったのである。

 近年大きく進展した清須会議前後の政治状況をめぐる研究や、秀吉の構想した政権構造の研究にもとづき、右の仮説を信長死没直後の状況において考えてみても、大きな矛盾は生じないようであった。詳しくは近刊『秀吉研究の最前線』(日本史史料研究会編、洋泉社歴史新書y)に書いた小文(「秀吉は、本能寺の変後から全国統一をめざしていたのか」)のなかで述べたので、ご参照いただきたい。

 最後にもう一度題に戻ろう。「信長は革命者ではなかったのか」。いままで「革命者」の要素として考えられてきたようなことがらからは、かならずしもそうはいえなくなってきている。しかしながら、秀吉と家康によって実現した中世から近世へ、戦国乱世から統一政権へという時代の変革をもたらしたという意味では、歴史という大きな川の流れに埋もれさせてはいけない「革命者」であった。体のいい逃げ口上かもしれないが、いまのところはそう考えるほかないのである。