李登輝・元台湾総統会見(講演編) 

 23日、日本外国特派員協会で台湾の李登輝・元総統が会見を開いた。冒頭、「台湾の主体性を確立する道」として、台湾や中国の歴史を俯瞰、新しい時代の台湾人とは何か、「託古改制」から「脱古改新」へと、自らの思想を語った。質疑応答では、世界情勢が変化する中、アジアにおける日本の役割に期待するとし、安全保障法案は必要だとの認識を示した。安倍首相についても"日本への貢献を高く評価"すると述べた。本記事では、冒頭の講演部分について全文をお届けする。 

"新しい時代の台湾人"とは

 日本外国特派員協会のPeter Langanさんはじめ、会場にお集まりの特派員の皆さま、こんにちは。台湾から参りました李登輝です。今回、国会における講演のご招待を頂き、昨日は多く国会議員の先生を前にお話することが出来ました。そして今日は、2007年6月以来、8年ぶりにこちらに伺い、再び講演する機会が得られましたことを大変光栄に感じております。 

 8年前は、念願だった奥の細道を訪ねる旅の最終日に、こちらの協会で講演したと記憶しています。その時私の隣に座っていた中嶋嶺雄先生も今では故人となられ、年月の流れを感じずはいられません。 

 その一方、この8年間で中国は経済的にも発展を遂げ、国際社会における発言力を増してたと同時に、ますます領土拡張の野望をむき出しにして来ています。これは、それまで世界の政治の方向性を主導する立場にあった米国の発言力が落ちてきていると無関係ではありません。 

 かつてはアメリカを先頭に、日本などせ先進5カ国、いわゆるG5が世界の経済や政治の進むべき方向性を決めていましたが、先進国の力量が軒並み落ち込み、新興国の発言力が強くなってきたことで、国際秩序が多様化し、その結果、アメリカの用にグローバルなリーダーシップを持てる能力、経済力を持つ国、もしくは組織が無くなりました。言い換えれば、グローバルなリーダーの不在、つまり国際秩序が崩壊したとも言えるでしょう。アメリカの政治学者、イアン・ブレマーは、はこうした状況を"G0の世界"と呼んでいますが、私としては、"国際社会に戦国時代が到来した"、と呼びたいところです。 

 こうした混沌とした時代に直面し、常に私の頭を離れることがないのは、我が台湾の行く末についてです。そこで今日は、「台湾の主体性を確立する道」と題して、皆さまにお話ししたいと思います。 

 台湾は移民で構成された社会です。有史以前から、台湾の平地や山地に暮らしていた原住民、対岸の福建などから海をわたってやってきた漢人、中国人、客家と呼ばれる人々、そして戦後になって中国大陸から渡ってきた外省人たちを主として構成されています。 

 ただ、その一方で、400年に6つの外来政権によって統治され、清朝時代には"化外の地"として、版図にさえ組み入れられない時代さえありました。 

 1895年、下関で日清戦争の講和会議が開かれ、台湾の割譲について話し合われましたが、日本側の代表である伊藤博文に対して、清朝側の李鴻章はこう言ったといいます。「台湾は非常に治めにくい所です。3年に1回、小さな乱が、さらに5年に1回、大きな乱がおきる。清朝の管理の行き届かない、"化外の地"です」。それに対し伊藤博文は「台湾は日本が引き受ける」と割譲を受け、そして、その言葉通り台湾はその後の日本統治50年によって、前近代的な農業社会から、現代的な社会へと変貌を遂げることになります。 

 ただ、現代においても、台湾が移民社会であることは変わっておりません。とはいえ、総統時代の私には、このような移民社会を生きる上で、エスニック・グループの対立は何としても解消しなければならない問題でした。それまでのように、本省人や外省人、または原住民などと、台湾人自らが区別していては台湾人としてのアイデンティティの確立など不可能です。当時の私は、これから台湾は、こうした、祖先の生まれた場所が異なる人々の枠を取り去り、新しい国を作り上げていくよう導いて行かなければならないのだと、背筋の伸びる思いがしたものです。 

 1994年の春、私が現役の総統だった頃ですから、もう20年以上昔のことです。作家の司馬遼太郎先生が『台湾紀行』の執筆がひと段落ついたということで、台湾を再び訪問されるということがありました。その前の年にお会いした時の「来年の4月にはまた来ますから」という約束どおり、私を訪ねてくれたのです。 

 その際、対談をしましょうということになり、私が「どんなテーマで司馬先生とお話したらいいだろう」と家内に相談したところ、「"台湾人に生まれた悲哀"」というテーマはどうだろうか」ということになりました。400年以上の歴史を持つ台湾の人々は、台湾人として生まれながら、台湾のために何もできない悲哀がかつてあったのです。 

 私は台湾に生まれ、台湾で育ち、台湾のために尽くしてきました。そんな私にとって、故郷・台湾への思いは尽きることはありません。同時に、台湾の人々がこれまで長期にわたり、外来政権によって抑圧されてきた悲哀を思うと、憤慨せずにはいられないのです。台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んできました。 

 後に私は政治の世界に入り、最終的には総統を12年務めるという偶然のチャンスを得ることになりましたが、そこで私は、台湾のために全力で働こうと決心したのです。台湾を傀儡政権の統治から解き放って、自由な国へ。そして、"台湾人として生まれた悲哀"を"台湾人として生まれた幸福"へ。これこそ、私が人生を賭けてきた目標なのです。 

 1945年、台湾を統治していた外来政権たる日本は大東亜戦争に敗れ、台湾を放棄しました。台湾は勝利者である米英などによって占領下に置かれることになり、中国国民党という、別の外来政権による統治が始まったのです。ただ、50年に及ぶ日本の統治によって著しく近代化された台湾にとって、文明水準の低い新政権による統治は、台湾人には当然の如く、政治や社会におけるい大きな負の影響を及ぼしました。二・二八事件の原因は、台湾と中華民国という、2つの異なる文明の衝突だったと言えるでしょう。 

 数百年来、ずっと外来政権の統治下にありました1996年に、初めて国民が選挙で総統を直接選んだことによって、やっと傀儡政権の呪縛から逃れることができたのです。 

 日本時代、学生が教室で日本語を話すと運動場で正座させられる罰を受けました。しかし日本の統治が終わり、国民党の時代になっても、それは何ら変わることはありませんでした。こうした状況下で、台湾人の間には、"新しい時代の台湾人と何か"、という問題が沸き起こってきました。 

 それまでの外来政権、例えば日本時代には、台湾人は日本人と比べ差別待遇を受けていました、しかし中華民国は、"台湾が復帰した"と讃え、"台湾人の同胞"と呼びつつも、やはり"二等国民"として取り扱っていたのです。 

 その後、二・二八事件の発生を受け、台湾人自身、"台湾人とは何か"という反問を徹底的に繰り返すと同時に、外来政権によらぬ、自分たちによる主体性を確立しなければならないと悟ります。そうでなければ、尊厳ある台湾人としての、独立した存在になることはできないからです。こうして、新しい時代の台湾人としての自覚が覚醒していったのです。 

 そうした意味では、台湾人による強固なアイデンティティの確立は、外来政権による統治下の産物と言えるのかも知れません。思うに、まさに台湾人が自身の独立した台湾人とする絶対意識を確立する契機となったのは、外来政権による統治なのです。 

 当時、台湾人は二つの外来政権の境界線上に立っていたとも言えます。そうした状況は、私の自我意識の形成にも非常に大きな影響を与えました。自分は最初は日本人、その後は中国人という二種類の姓、二つの世界、二つの時代という、境界に生きる人間なのだと意識せざるを得なかったからです。 

 数年前、台湾で出版された「新しい時代の台湾」という本の中で、私は次のように述べました。 

 既に民主改革を成し遂げ、民主国家となった台湾は、再び民族国家に立ち戻るべきではない。大中華思想というまやかしから脱しなければならない。台湾の国民による共同体意識は、民主的であるべきで決して民族的であってはならない。 

 そうしたことから私が提唱する、"新しい時代の台湾人"というのは、民主社会において国民意識をもった国民の総称なのだ。"新しい時代の台湾人"とは、決して総人口に占める割合が多い民族グループが主体となって台湾民族を構成するのではありません。一視同仁の考えに基づき、すべての人々が平等な公民である、とみなされるべきです。 

 この新しい時代に台湾で生活する2300万の人々が精神改革に取り組み、新たな意識を持たばければならないと自覚しなければなりません。そして、主体的な思想変革を実現させなければならないのです。新しい時代の台湾にいる、という自覚を持つことによってはじめて、自分とは何者か、台湾人とは何者かというアイデンティティを確立することが可能となります。自分自身が一人の独立した台湾人だと絶対的に認識することによって、過去の自我が救われます。新たな思想を持つことで過去を否定し、新しい未来を建設するのです。 

 その結果、台湾の民主化はより一層深まり、さらに新しい、民主的かつ自由な台湾が作り上げられることになるでしょう。

「託古改制」から「脱古改新」へ


 続いて、中国の「託古改制」についてお話したいと思います。「託古改制」とは、"古に照らして制度を改革する"という、旧態依然とした制度を重んずる考えです。中国の歴史を紐解けば5000年の歴史上脈々と帝国体制が受け継がれてきました。こうした体系こそが中国史の朋党です。この法灯という体系から外れたものが、化外の民であり、夷狄の国々なのです。それゆえ中国人の特徴では、ひとつの中国の概念があって、5000年の歴史、ひとつの中国の歴史で、現在の中華民国も中華人民共和国もともに中国5000年の歴史の延長に過ぎず、ここから見て取れるのは、中国は未だに進歩と退歩を絶え間なく繰り返している政権に過ぎないということです。 

 となると、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが、中国をして"アジア式の発展停滞"と論じていますが、これは決して誤りではありません。孫文が建国した中華民国は、理想を宿した新しい政体ではありましたが残念ながら政局の混乱によりその理想は夢と終わり、基本的には中国式の朋党の延長線上にある政体に成り果ててしまいました。 

 中華人民共和国は、その源をソビエト共産党に発するものの、中国という土地に建国された以上、中国文化の影響から逃れられずにはいられません。 

 毛沢東に始まり、以後の鄧小平、江沢民に続くまで、表面上は共産党であるものの、その統治政策をみても、共産党は早々と中国化していったのです。一国二制度という香港もまた中国固有の産物であり、決して鄧小平が発明したものではありません。 

 ここで指摘しておかなければならないのは、共産革命が中国にもたらしたのは、中国をアジア主義の発展停滞から脱出させるものではなく、中国は抜け出せませんでした。それはまさに、中国伝統の覇権主義の復活であり、誇大妄想を有する皇帝制度の再来だったのです。 

 中国5000年の歴史は、一定の空間と時間の中でで、ひとつの王朝から次の王朝へ連結する歴史であり、新しい王朝といえども、前の王朝の延長に過ぎません。歴代の皇帝は権力の座の維持、国土の拡大、富の搾取に汲々とする以外、政治改革への努力を払うことは稀でした。これこそが、まさに"アジア的価値"と言えるものです 

 今年3月、"シンガポール建国の父"と言われたリー・クアンユーが亡くなられた。私と同じ歳ということもあり、何かと比較の対象として引き合いに出されましたが、はっきり申し上げたいのは、リー・クアンユー氏と私の思想は全く異なるということです。 

 『文明の衝突』を著したハーバード大学のハンティントン教授は、「李登輝が死んでも台湾の民主主義は残るが、リー・クアンユーが死ねばその制度は失われる」と評しました。まさに、リー・クアンユー氏が採ったのは、アジア的価値である"同族支配体制"であり、私が推し進めたのは、自由と民主を尊重する世界的価値だったからです。 

 中国の歴史上、政治改革と言えるものが何度か起こりましたが、惜しむらくは、どれも成功しなかったことです。歴代皇帝の統治を見てみると、どの王朝も疑いなく「託古改制」のゲームに終始していると言わざるを得ません。「託古改制」とは言うものの、実際は「託古不改制」という方がより事実に則したといるでしょう。 

 5000年の、閉鎖された皇帝制度に対し、魯迅は次のような見方をしています。「これは閉ざされた空間で亡霊が入れ替わり演じる劇であり、この国がよたよたと歩みを進める、つまらない輪廻の芝居である」。 

 魯迅の表現は、中国人の民族性を的確に表しています。中国人とは、「騒ぎは率先して起こさず、災いの元凶にならないのみならず、率先して幸福にならずの民族である。これでは、あらゆる物事の改革を進めることはできず、誰も先駆者や開拓者の役割を担おうとしない」。私はこの魯迅の観察はかなり正鵠を射ていると思います。 

 ここで私は、新しい改革の方向性として、「脱古改新」という新しい思想を提唱したいと思います。 「脱古改新」とは、古を脱し、新しく改める。つまりはアジア的価値からの離脱ということです。中国の朋党による「託古改制」が、もはや近代の民主化の潮流に見合わないことは明らかです。「脱古改新」の目的は、「託古改制」のアジア的価値を捨て去り、一つの中国主義、朋党よる地獄から逃れ、台湾の主体性ある民主国家にすることにあるのです。 

 台湾にとって「脱古改新」が必要なのは、取りも直さず台湾自身の問題であり、中華人民共和国がら派生 する問題があります。 

 1988年、私が総統の任に就いた時、台湾という国家の戦略を描いた背景は次のようなものでした。 

 この当時の国民党政権における独裁的な統治は、まさにアジア的価値観の見本とも言えるような状況にありました。政権内部には保守と革新の対立、閉鎖と開放との対立、国家的な民主改革と独裁体制の衝突、台湾と中華人民共和国の間における政治遅滞の矛盾など、深刻な問題が山積していました。 

 特に、民主化を求める国民の声は日増しに大きくなっていたのです。全体的に見ると、これら問題を抱える範囲は非常に大きく、その根本的な問題は台湾の現状に即していない中華民国憲法にあったと言えます。そのため、私はこれらの問題の解決のためには、憲法改正から始めるしか無いと考えたのです。 

 当時、私は国民党主席を兼務しており、国民大会では国民党が絶対多数の議席を有していました。言い換えれば、当時の国民党は絶対的に優勢な政治改革マシーンでありました。 

 ただ問題は、党内部の保守勢力でした。保守勢力は時代遅れの憲法への執着を隠さず、その地位を放棄することにも大反対でした。民主改革を求める民衆の声には耳を貸さず、ただ政権維持だけに固執したのです。さらに、国民党を牛耳る有力者たちは"反攻大陸"、つまり、いつの日か中国大陸を取り戻すという、時代遅れの野望を捨てきれずにおりました。 

 そこで私は一計を案じ、国家統一綱領を制定して、中国の民主化、自由化、所得配分の公平化が実現された際には、統一の話し合いを始めるという厳格な規定を設けました。私は、中国が自由化・民主化されるような日は半永久的に来ないと思っていましたし、仮にそうなった場合にはその時にお互い再び話しあえばよいと考えたのでした。ただ、国家統一綱領をを作ったおかげで、それまで私に猜疑心のあった有力者たちも、安心して総統の私を支持してくれるようになったのです。 

 こうした一連の民主化の過程において、私は幾多の困難にぶつかったとはいえ、終始国民からの支持を受けながら、経済成長の維持、社会の安定を背景に、ついに一滴も血を流すことになく、6度にわたる憲法改正によって、"静かなる革命"を成就させました。 

 憲法改正の主な目標には、「動員戡乱時期」を終わらせ、「動員戡乱時期臨時条款」を廃止すること、地方議員全てを台湾の有権者による選挙により選出すること、有権者の直接投票による総統選挙などが含まれ、これらを相前後して実現させていきました。 

 そして民主主義という大きなドアを開けたのみならず、中華民国は台湾にあり、というステージへ押し上げたのです。長らく推し進めてきた台湾の主体性を有した政権はこの頃に完成されたと言ってよいでしょう。 

 1999年、ドイツの放送局によるインタビューで、私はより明確に、台湾と中国は「特殊な国と国との関係」と言い切りました。この"特殊な"という言葉は、国際的には非常に多様な特殊な立場に置かれていると。台湾と中国との境界をこれによって鮮明にしたのです。半世紀以上もの間、台湾問題とは、すべからく中国との関係においてでした。中国との関係をきちんと整理することで台湾に長期の安定がもたらわせれるようにしたのです。 

 さらに、台湾が主体性を有する国家となるためには、文化建設もまた重要でした。そのために、私は政治活動を進める一方で、教育改革、司法改革、そして精神改革を唱えることも忘れませんでした。中国的文化の色彩を弱め、様々な分野で主体性を有した台湾の文化を確立させたのです。台湾の国家的基礎を固めるため、この改革を私は当時「新中原文化の確立」と呼んだのです。 

 台湾の民主改革の成功、新しい文化の確立、対中関係の成立は、「託古改制」から「脱古改新」へのプロセスによって実現されました。そしてアジア的価値を否定するという目標を達成し、「新しい時代の台湾人」という新概念を確立させたことは、あらゆる価値の転換だったのです。 

 本日は、「台湾の主体性を確立する道」として皆さんにお話しました。ご清聴いただき、ありがとうございました。 

・「安倍総理の日本に対する貢献を高く評価」〜李登輝・元台湾総統が会見(質疑応答編)はこちら