青柳武彦(国際大学グローコム客員教授(元教授)学術博士)

筋が通らない野党、平和主義者の主張


 安全保障関連法案審議のために平成27年6月5日に開かれた衆議院憲法審査会において、自民・公明両党推薦の長谷部恭男早大教授、民主党推薦の小林節慶大名誉教授、および維新の党推薦の笹田栄司早大教授の三人が参考人として出席した。参考人質疑において、なんと与党推薦の長谷部氏を含めた三人全員が「安全保障関連法案は憲法違反である」と批判した。

 野党は鬼の首でも取ったように勢いづいてしまって、違憲の法案は撤回するようにと要求する始末。平和安全特別委員会は紛糾してしまったので、当初予定していた会期中に法案を通過させることは難しくなったと考えざるを得ない。

6月10日、衆院平和安全法制特別委で、民主党の辻元清美氏(左下)の質問に答える菅官房長官
 菅義偉官房長官が談話で「合憲と考える憲法学者もいる」と述べたが、辻元清美委員から言葉尻を捉えられて「それは誰か、何人か」と迫られた。「西修駒澤大名誉教授、百地章日大教授、長尾一紘中央大名誉教授」と答えたが、「たったの三人か」と逆襲された。菅官房長官は「数ではない」と苦しい答弁をした。くだらないやり取りだが、一般の国民は政府に不信感を持ったであろう。

 自民党の佐藤勉国会対策委員長はこの人選ミスに激怒して、同党の船田元審査会筆頭幹事に「参考人の人選には十分配慮してほしい」と申し入れた。単なるミスでは済まされない、全くお粗末な一幕であった。

 与党が推薦した長谷部氏は筋金入りの護憲派で、もともと集団的自衛権には反対なのだから、この発言は予想できたはずだ。氏は、宮沢俊義から芦部信喜と続くエスタブリッシュメント憲法学者ラインの中心である。芦部氏の葬儀の折には、長谷部氏が葬儀委員長を務めたほどである。

 長谷部氏は宮沢・芦部両氏の憲法論を若干修正して、次項に述べる憲法の性格や自然法との関連についても詳しく論じている。しかし、いざ現実への応用のための条文解釈になると、一般法(民法、刑法、商法などの実定法)の解釈論から一歩も出ていない。憲法九条の条文と現実との整合性に捉われてしまっているのだ。

 長谷部氏は、立憲主義と絶対平和主義は両立し得ないとまで言って、「国民全員が無抵抗で殺されてでも九条を護れ」などという絶対平和主義に対しては厳しく批判をしている。かつて『構造と力』を著して、ニュー・アカデミズムの代表とまでいわれた浅田彰京都造形芸術大学教授が若かった京都大学準教授時代に、「(九条は)侵略があれば全滅してもよいという覚悟を語っているのだから、平和憲法はラディカルだ」といったことを思い出させる。

 野党やいわゆる平和主義者が、「他国から侵略されたら殺されてもよい」と覚悟をしているのなら筋が通っている。彼らが覚悟をするのは勝手だが、それを他人に押し付けないでほしい。もし覚悟がないのなら筋が通らないので、主張がメチャクチャだ。

 長谷部氏は以前から、現行憲法でも個別的自衛権で武力は行使できると解釈すべきであるとの意見表明をしていたので、自民党の人選担当者が間違ってしまったものだろう。しかし、制限的な武力行使は専守防衛に行き着くから、決して勝ってはいけないことを法律で定めるに等しい。

 敵は撃退されてもその都度、体制を整え直して何度でも安全に攻めてくることができるから、日本は決して勝つことができない。負けて殺されてしまうわけだから、長谷部氏の平和主義批判は中途半端で貫徹できないことになる。殺されたくないのであれば、憲法に何と書いてあろうとも、自衛隊には「歯止め」なしに全力で抵抗してもらわなければならないのだ。

 長谷部氏は、個別的自衛権までは容認するにしても、集団的自衛権には反対だった。本法案を「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と批判し、「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と述べた。要は「歯止め不十分論」である。

 審査会で長谷部氏の発言を引き出した民主党の中川正春元文部科学相は、党代議士会で「憲法審査会で久しぶりに痛快な思いをした」と満足げに語ったという。日本が滅びてしまったら、もっと満足なのだろうか。

「歯止め」論は百害あって一利なし


 与党はこれまで、集団的自衛権を容認させるために、自衛権に十分な歯止めをかけて集団的自衛権を容認させようという作戦を取ってきた。そして今回、その根拠法となる法案を成立させておこうとしている。長い間の空想的平和主義者の力が強かった状況のなかで、何とか集団的自衛権を容認させるためのものだ。現実と妥協したやむを得ない政治的判断だったのだろう。

 しかし筆者に言わせれば、その作戦こそがボタンの掛け違いの始まりであった。そろそろ憲法とは何か、現行の憲法成立の経緯、第九条の合憲性(?)、という正面突破作戦に移行する必要がある。正当な自衛権にはそもそも「歯止め」などは不要で、百害あって一利なしなのである。

 長谷部氏の言うとおり、「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」のは事実である。しかし、もっと重要なのは、変転する国際情勢のなかにおいて、有効に平和と安全を確保するためには日本は如何にあるべきかを考えることであった。憲法九条の条文との整合性にこだわって、「歯止め」論中心に議論を進めるべきではなかったのである。

 坂元一哉大阪大学教授は、平成19~20年の日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の有識者委員を務め、常に傾聴に値する正論を吐いてきた学者である。

 しかし彼でさえも、6月8日の産経新聞において「特に大切な『歯止め』議論」という一文を発表した。本稿が提案する、今後の長期的な正面突破作戦の足を引っ張るものだ。

 坂元教授は「憲法の平和主義と、安全保障の実効性を両立させる観点から、(『歯止め』議論は)とくに大切な議論だと思う」とし、「憲法の平和主義は、わが国の武力行使を、自衛のための必要最小限のそれに限っている」と指摘、その歯止めの代表例として「海外での武力行使を一般に禁じる政府の解釈」(昭和29年の参議院決議)があり、これは簡単に外せるものではないと述べている。

 さらに、「私は新法案が、自衛隊派遣に国会の事前承認を例外なく義務づけたことを評価する」とまで述べている。

 海外派遣の派遣地にしても、政府は「戦闘状態ではないと判断される地域」のみと説明しているが、そんな地域があるわけがない。その地域が戦争になったら一目散に逃げるだけなのか、駆け付け警護に来てくれた同盟軍が、もし別の時に危機に襲われた時に日本の自衛隊は助けに行けないのか。そんな国際的に軽蔑されるような品格の欠如した法律を自衛隊に押し付けて良いのか。

 武力行使の新三要件などは、いくら反対派を黙らせるためとはいえ、自衛隊を不必要に束縛して日本人の名誉を傷つけるものだ。要は、国内でも海外でも、日本が他国にしてほしいことを日本もできるようにすることだ。

「歯止め」論こそ、自衛隊のリスクを増大させる


 この安全保障関連法案は自衛隊のリスクを増大させる戦争法案だ、などとわけのわからない反対論をぶつ人間がいるのも困ったものだ。新しい任務ができれば、それに伴う新しいリスクが生じるのは当たり前だ。しかし、集団的自衛権を行使できるようになれば抑止力は増すから、戦争が起こる危険性は減少する。つまり、自衛隊のリスクの総量は減少するというのが理屈だ。

 しかし何よりもここで強調しておきたいのは、本当に自衛隊のリスクを増すのは「歯止め」論である。制限的・限定的自衛権を唱えて「歯止め」論を振りかざしている輩こそが、自衛隊員のリスクを増やしているのだ。

 こうした「歯止め」論の前提は下記の三つの想定を根拠としている、と筆者は考える。三つながらにして事実誤認で、全く根拠がない想定だ。しかも自分勝手で卑怯だから、日本を貶めることになる。

 第一の前提は、現在の自衛隊の戦力は世界に比類のないほど強大なので、どんな歯止めを掛けても掛け過ぎることはないし、十分、国防の任を果たすことができるという想定だ。

 根拠のない希望的な期待だから盲信といってよい。一旦戦争になったら、互いに技術の粋を尽くしてのハイテク戦争となって「死ぬか生きるか」の戦いになるのだから、「歯止め」などを掛けていたら話にならない。自衛隊の戦力を削ぐのではなく、支援増強する策が必要なのだ。

 第二の前提は、日本国民は歯止めなしにはすぐに侵略戦争に乗り出しかねない好戦的な国民だという想定だ。特に他国における武力行使は、よほどのことがない限り原則禁止にしておくべきであるというものだ。自尊心も名誉もかなぐり捨てた卑しい想定である。日本国民をこれほど侮辱した発想はないだろう。

 憲法第九条は、日本が二度と復活して国際舞台に登場してくることができないようにするために、ポツダム宣言(占領相手国の法律を力で変更させてはならない)に違反してまで連合国が押し付けた条項である。日本側(松本委員会)がこれに抵抗しようとしたら、マッカーサーにそれでは日本の国体維持を保証することはできないと恫喝されて呑まされた条項である。

 第三の前提は、日本に対して武力で侵略してくる国はないか、あってもすぐに撤退してしまうだろうという想定だ。現状の国際情勢に全くの音痴の前提としか言いようがない。中国が天安門広場で、ウイグルで、チベットで何をしてきたか。さらには、東シナ海と南シナ海で現在何をしているかを見ればすぐ分かることだ。

 甚だしい事実誤認だから官邸、外務省、防衛省、自衛隊も国民に対して現状をよく説明すべきである。

 つまり、三つの前提とも極めて非現実的な想定で成立しないのだから、残るは憲法第九条の字面と現状との整合性の問題だけである。現状との整合性の問題は、政策の妥当性や国家の安全性などの価値判断分野とは何の関係もない。

新法案はポジティブ方式からネガティブ方式に切り替えよ


 今次の安全保障関連法案は「自衛隊法」などの十本の法律改正案と一本の新法、すなわち「国際平和支援法」から成り立っている膨大なものである。筆者は、この法案は是非とも通過させることを願っている者であるが、あくまでもこれは憲法改正までの間に集団的自衛権に法律的根拠を与えるための経過措置的な法整備と考えている。

 しかもこれらの法律の本質は、自衛隊の戦力を縛るための「歯止め」論である。ポジティブリスト方式(許可されることを列挙して他は全て禁止)であるから、現実には臨機応変の対応は不可能である。たとえ許可される行動を予め何千例、何万例挙げておいても、全てのケースを網羅することはできないし、現場の指揮官が全ての法定許可事項を瞬時に判断することなどもできない。

 坂元教授が評価する「自衛隊派遣に国会の事前承認を例外なく義務づけた」などは、極めて現実を無視した暴論だ。事前承認を取る暇がなかったら何もしないのだろうか、自衛隊に超法規的処置を迅速に取るように期待するのだろうか、それともそんなケースは起こり得ないとでもいうのだろうか。

 したがって将来、めでたく憲法改正(特に第九条)が成就した暁には全部をいったん無効として、改めて一本にまとめてほしいと考えている。要は、「武力行使が生じたら絶対に勝つこと、国際法に違反すること以外は何をやってもよいこと、及び具体的判断は全て現場の指揮官に任せること」を明らかにして、あとは手続き論を定めておけば良いのだから、一本にまとめることはそう難しくないはずだ。

 とにかく、現場の自衛隊と十分に打ち合せを行って実効性のあるものに作り直していただきたい。作り直す新法律は、是非とも他国と同様なネガティブ方式(国際法違反などの禁止事項のみを決めておいて、他は現場指揮官の判断に任せる)というものにしてほしい。

 “下衆の勘繰り”かもしれないが、筆者はこんな大部の法律案ができてしまったのは、怠け者の官僚の責任転嫁精神の産物ではないかと疑っている。田母神俊雄元自衛隊航空幕僚長が近著『田母神「自衛隊問答」』のなかで語っておられるが、「自衛隊が縛られる理由として、(官僚は)何かあったときに自分たちがトラブルに巻き込まれないよう、あらかじめ先手を打ち、文句をいいそうなところにお伺いをたてておく体質が染みついていることが大きいと思うようになりました。(中略。官僚に疑問点を)聞いたら必ず向こうに縛られる。だから『規則に書いてあることを、私はこう解釈してやりました』といえ」と命令したとのことだ。

 昭和53年(1978)に自衛隊のトップである栗栖弘臣統幕議長が「現行法制では有事の際、超法規的に行動せざるを得ない」と発言して、当時の金丸信防衛庁長官から解任されてしまったことがある。

 この事件の大方の受け取り方は、シビリアン・コントロール原則に違反するというものだったが、栗栖氏の真意は「こんな自衛隊の手足を縛る法律ばかりでは動きが取れないから、いっそ何もないほうが自由に動けるから効果的だ」というものだったろう。