九段靖之介

憲法に沿うか沿わないかの堂々巡り


 安保法制をめぐって、国会で神学論争が続いている。

 「おっしゃることが、よくわからない」
 「それでは答えになっていない」

 ラチもない質疑の繰り返しだ。詰まるところ、憲法に沿うか沿わないか、それをめぐって堂々巡り。いつ果てるともしれない。

 会期を延長したところで、議論は尽きない。結局は例によっての強行採決となろう。それが野党の狙いで、これまた例によって「多数の横暴だ」「立憲主義に反する史上稀に見る暴挙だ」などと言い立てて、「安倍独裁」を印象づける算段だ。

 この議論、大方の日本人にはわかるまい。いや、わかろうともしない。どうでもいい議論、所詮は野党のパフォーマンスと冷ややかに見ている。それもそのはず、この種の神学論争に日本人ほど無縁な民族も珍しい。

 古来、西欧や中東では、聖書やコーランの解釈をめぐって血みどろの抗争が続いてきた。聖典の解釈権を独占した者が、人間を内心から縛り上げるほどの権力を得る。実態は権力闘争で、それと知らない善男善女が踊らされて血みどろの抗争となる。ちなみに、英語で宗教を意味する religion の語源は、ラテン語の religio=「縛る」からくる。

 くらべて日本には聖典に当たるものがない。神道には教典もなければ教祖もいない。そんなものは要らないよ、と大方の日本人は思って暮らしてきた。よって聖典をめぐる抗争は起こりようがない。たまさか仏典の解釈権をめぐって宗派間の争いがあっても、大方の日本人はそれをヨソ目に知らんふりだ。
野党の緊急院内集会に臨む、(右から)民主党の岡田克也代表、共産党の志位和夫委員長、「生活の党と山本太郎となかまたち」の玉城デニー幹事長。後ろはテレビに映る、記者団の質問に答える安倍晋三首相=7月16日午後、国会内(長尾みなみ撮影)
 目下の国会のラチもない論争は、憲法を聖典と心得るところからくる。かつて明治憲法は「不磨の大典」とされ、天皇は「現人神」で、その「御心」に沿うかどうかをめぐって権力闘争が展開され、挙げ句は「八月十五日の悲劇」に至った。明治憲法を策定した伊藤博文の曰く、

 「西洋にはキリスト教なるものがあって、これが国の機軸をなすが、日本にはそれに相当するものがない。よって皇室をもって機軸とし、あえて西欧流の三権分立制を取らず」(帝国議会における説明)

 「現人神」を擬制することによって、内に忠誠心を調達し、二百余州を束ねて外に対抗する。軍服を着た三代の天皇は、日本史上きわめてヘテロ(異質)な時代だが、これによって西力東漸をハネ返し、歴史家トインビーにいわせれば「アジアで羊のごとく毛を刈り取られることのなかった唯一の国」たり得た。

本来、憲法は一種の慣習法


 明治憲法は支払うものも大きかったが、得たところも大きい。メリットとデメリットを併せ持つシステムだったといえる。国のシステムの長所を活かし、短所を減じることができるのは議会の他にはない。最大の短所は軍の統帥権で、議会はそれと気づきながら改変の勇気と努力を欠き、挙げ句は機能不全に陥り、「八月十五日」に至った。

 憲法を「不磨の大典」、アンタッチャブルなものにしてはいけない。本来、憲法は一種の慣習法で、国の構成員(国民)の多数が集団生活のルールとして諒とする約束事で、これを時代に即応して内に向けても外に向けても自在に変えていくのは当然で、何の不都合もないはずだ。

 アメリカ憲法は二十七回、ドイツ基本法(憲法)は数十回も修正されている。一代の論客・福田恆存は現行憲法を「当用憲法」と呼んだが、憲法を含めて法律のあらかたは「当座の用に間に合わせるもの」で、これを不磨のプリンシプル(原理・原則)とすれば、時代に即した動きができなくなる。

民主党が何かと遅延行為を繰り返す理由


 鉄血宰相ビスマルクの箴言がある。

 「政治においてプリンシプルを振り回すのは、長い棒を口にくわえて森の中を駆け回るようなものだ(口が裂けて怪我をする)」

 日本を取り巻く国際環境は日々に厳しくなっている。早い話、いまの憲法を抱えたままで中国の脅威に対抗できるか。元幕僚長から聞いたことがある。

 「いまの自衛隊は引き金に指をかけながら、憲法違反になるかどうか考える、そんな状態で国を守れますか」

 目下、衆院で共産党と社民党を除く超党派の議員連盟五十人によって、憲法改正を視野に入れた憲法審査会が始まっている。改正の原案作りを目指すが、議論は入り口で頓挫し、一向に原案作りに進まない。最大のブレーキは民主党だ。民主党が何かと遅延行為を繰り返すのは、原案作りが具体化すれば、それをめぐって党内分裂が生じるからだ。

 さきごろ「政界引退」を表明した橋下徹が、自らのツイッターでこう言っている。

 「民主党は日本にとって良くない政党です」