李登輝(台湾元総統)

新渡戸稲造との出会い


 台北高校の一クラスの定員は40人。そのうち台湾人の生徒は3人か4人だったと記憶している。在学中、とくに差別を感じたことはない。むしろ先生からはかわいがられたほうだと思うし、級友たちも表立って私におかしなことをいう者はいなかった。自由な校風の下、私は級友たちとの議論を楽しみ、大いに読書に励んだ。

 本を読むには時間がかかる。そこで私はノートにどんな分野の本を読んだか、いつまでに読むかを逐一メモしていた。哲学、歴史、倫理学、生物学、科学。ほんとうに、ありとあらゆる分野の本を読んだ。高校を卒業するまでに、岩波文庫だけで700~800冊はもっていた。私の人生観に影響を与えた本は多いが、1冊を選ぶとするならば、19世紀の英国の思想家、トーマス・カーライルの『衣裳(衣服)哲学』を挙げる。しかし、カーライルの英文は格調が高すぎて、読み進めるのがなかなか難しかった。そんなとき、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての講義録に出合った。これに大いに助けられ、またその内容に感銘を受けた私は、『武士道』を座右の書とするようになる。京都帝国大学で私が農業経済学を学んだのも、農業経済学者であった新渡戸の影響を受けたことが理由の一つである。

 新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げている。しかし『武士道』でなにより重要な点は、それらの実践躬行を強調していることであろう。一回しかない人生をいかに意義あるものとして肯定するか。そのために「私」のためではなく、「公」のために働くことの大切さや尊さについて『衣裳哲学』や『武士道』から学び、若き日の私は救われたのである。

 

「決戦下の学徒として」


 学問好きが高じて私は最終的には歴史の先生になるつもりでいたが、戦争の余波は台湾にも及んでおり、私は台北高校を半年間繰り上げて卒業することになった。卒業まであと少しというとき、私は『台湾日日新報』の取材を受けることになった。同紙は日本統治時代の台湾で最大の発行部数を誇っていた新聞で、1943年(昭和18年)6月28日発行の同紙に私のインタビュー記事が掲載された(現在、台湾の大学の図書館などで、記事が検索、閲覧可能である)。

 “決戦下学徒の決意”といふ問に答へ、臺北高校3年文科の本島人学生岩里君は左の如く語つた。

 決戦下の学徒として僕達の切實の感情は何と言つても大東亞戦に勝ち抜くと云ふことだ。学問をするといふことが要するに國家目的の為であつて、これまでのやうな学問の為の学問といふ考へ方は絶対にあり得ないと思ふ。

 学園内のこれまでの弊衣破帽の風も現在としては一時代の遺物とも言ふべきもので、吾々には新しい立場が必要だと言ふことは痛感してゐる。唯高校生は内省的な傾向が強いので外部に余りはつきり自己の立場を示すことがないが、外部に於てはさうした氣持は相当強いと思ふ。

 今や臺湾にも陸海軍の特別志願兵制度が施行され、私も大学の法科を出たら志願をしたいと父母にも語つてゐるのであるが、軍隊の制度は吾々が自己の人間を造る所であり、色々と苦しみを忍んで自己を練磨し明鏡止水の窮地に至るに是非必要な所だと信じてゐる。近くに内地に行くこととなつてゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禅の研究をしたいと思ふ。

 過渡期の知識層といはれる面に一番欠けてゐるものは力であり、指導力であつて現在でも國民をひきづつてゐるのは哲学でも理念でもなく、國民の氣力であり学問はその國民の氣力に立遅れた感があるが國民の力の原動力となる学問が必要だ。

 現在の哲学が軍人に讀まれてゐぬといふ所に現代の学問の危機があるのではないだらうか。本島では大東亞戦の認識がまだ最末端まで徹底してゐない所がある。さう言ふ人達に對する啓蒙は私としては本島人に對する義務教育が一番有効に働くものではないかと思ひ義務教育の施行された事は尊い有難いことだと思つてゐる。結局教育と徴兵制が本島人が日本人として生まれ変わつて行く大きな要件ではないかと思ふ。

 1行目に岩里君とあるが、これは私の日本名である。当時は岩里政男と名乗っていた。また、「決戦下の学徒として僕達の切實の感情は何と言つても大東亞戦(大東亜戦争)に勝ち抜くと云ふことだ」とあるが、実際に私は京都帝国大学に入学後、学業をわずか1年2カ月ほどで切り上げ、陸軍に入隊した。召集ではなく、自分の意志で志願したうえでのことである。

 私がクリスチャンになったのは戦後のことであり、当時は日本の教育の影響で徹底した唯心論者であったが、「死」がどういうものか、わかっていたつもりである。「武士道とは死ぬことと見つけたり」。『葉隠』の精神そのままに、国のために戦って死んでも惜しくはないと考えていた。日本統治時代の教育を受け、志願兵となった当時の台湾人青年にとって、それはごく普通の感覚であった。

 大阪師団配属後、私はすぐに台湾・高雄の高射砲部隊に派遣された。一歩兵として最前線をさまよい、少年期から私を悩ませてきた生と死の問題に決着をつけるつもりだったが、学徒兵であった私の希望は受け入れられなかった。高射砲部隊というのは爆撃がなければ暇なもので、日本では禁書だったレマルクの『西部戦線異状なし』などを読んでいた。