戸高一成(大和ミュージアム館長)

 「戦艦」と「軍艦」の違いは?


近年、関心が高まり続けている日本海軍の艦艇。しかし、意外と見落としがちなポイントもあるのでは? 例えば、「軍艦」と「戦艦」の違いは? 「大和」「武蔵」などの名前はどう決まる? ここでは、太平洋戦争期の日本海軍艦艇を知るための「10の基礎知識」をQ&A形式で紹介しよう。

(1)「軍艦」「艦艇」「艦船」は、同じ意味?
 海軍の「軍艦」と「艦艇」は同じ意味だと思われがちですが、実はそうではありません。

 日本海軍所属の艦は、そのすべてが「艦艇類別標準」に沿って分類されていました。類別標準とは、明治31年(1898)に制定された法令です(当初の名称は「軍艦及水雷艇類別標準」)。ここでは、最後の変更となった昭和19年(1944)以降のものを紹介しましょう。これを見ると、当時の日本海軍にどんな種類の艦艇があったかが、一目瞭然です(※別表)。

 軍艦とは戦艦や巡洋艦など主要な艦艇のみ指す呼称でした。「海軍所属の艦=軍艦」と思われる方も少なくないでしょうが、駆逐艦や潜水艦は軍艦とは呼びません。

 実はこれらは、それぞれ4隻を基準に隊を編成し、これで軍艦1隻の格でした。ですから、戦艦の艦長と駆逐艦4隻から成る駆逐隊の司令が同格だったのです。

 海軍が主要艦艇のみを軍艦に分類した大きな理由は、軍艦の艦首に菊の御紋章を付けるという慣習にあります。駆逐艦や潜水艦は極めて消耗が激しく、それらに菊の御紋章をつけて簡単に沈まれては、具合が悪かったのでしょう。

 一方、「艦船」という場合には、民間の船舶も含みます。つまり、「艦船」は艦艇と船舶を指し、「艦艇」の中に「軍艦」が含まれる、という順番です。

(2)各艦艇の役割は?
 日本海軍の艦艇の役割は、大きく2つに分けられます。「戦闘する艦」と、それを「支援する艦」です。

 昔の帆船時代の主力艦は、戦列艦(line of battle ship)と言いました。戦艦の名前は、ここから始まりました。トラファルガー海戦で知られるイギリス海軍の英雄・ネルソン提督が活躍した時代(18世紀)もそうです。

 しかし時代が下り、戦術や技術が発達すると、状況は変化しました。まず軍艦の中でも小型で高速の艦が巡洋艦に区分されます。偵察や捜索など、艦隊の耳目手足の役割を担うとともに、時には海上戦闘の主力としても活躍しました。

 また、19世紀後半に魚雷が発明されます。魚雷は戦艦に甚大な被害をもたらし、雷撃を行なう小型の水雷艇は戦艦の脅威となりました。そこで水雷艇から戦艦を守るべく生み出されたのが、速力と運動性に特化した駆逐艦です。駆逐艦は英語で「 destoroyer(デストロイヤー)」。デストロイ(破壊)の対象は水雷艇なのです。そして駆逐艦に見つかりにくいよう、海中に潜った水雷艇が潜水艦でした。

 日本海軍の連合艦隊に戦艦、巡洋艦、駆逐艦、水雷艇、潜水艦までが揃ったのは、20世紀初めの日露戦争の頃でした。これらは大砲で戦う戦艦、巡洋艦の砲戦部隊と、魚雷で戦う駆逐艦や潜水艦など雷撃部隊の2つのグループに分けることができます。

 なお、当時の巡洋艦には若干の防御を施した防護巡洋艦(protected cruiser〈プロテクテッド・クルーザー〉)や、より防御力の高い装甲巡洋艦(armored cruiser〈アーマード・クルーザー〉)がありました。また、後に戦艦よりもやや防御力が劣るものの、高速の巡洋戦艦も生まれます。そして第1次世界大戦後に、航空機を搭載する航空母艦(空母)や水上機母艦が登場するのです。

 一方、海軍にとっては、「戦闘する艦」の戦闘能力を万全の状態で維持することも重大な課題でした。そこで求められたのが、「支援する艦」なのです。

 艦隊にはタンカーや補給艦、応急処置を施す工作艦が必要でしたし、軍港ではクレーン船や牽引する曳船が欠かせません。海軍の艦艇というと前線で華々しく戦う姿ばかりを想像しがちですが、こうした支援艦を含めて海軍の艦隊だということを忘れてはならないでしょう。

(3)「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」の違いは?
 大正10年(1921)のワシントン海軍軍縮会議で、巡洋艦は「単艦基準排水量1万トン以下」「備砲は8インチ(20.3cm)以下」「ただし、総保有数は制限しない」と定義されました。

 それが、昭和5年(1930)のロンドン会議において砲口径が6.1inch(155mm)~8inch以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、同6.1inch以下を「カテゴリーB」と分類し、それぞれの保有数に制限が設けられたのです。

 基準が変わった理由は、ワシントン条約の範囲内で妙高型や高尾型など優れた巡洋艦を生み出した日本海軍を列強が恐れ、押さえつけようと図ったためでした。

 日本海軍は、カテゴリーのAとBをそれぞれ「一等」「二等」に類別し、これが「重巡洋艦」「軽巡洋艦」と呼ばれるようになりました。つまり、技術的な要素ではなく、非常に人工的なカテゴライズなのです。その証拠に、当初、軽巡洋艦だった最上型は20cmの主砲を積んで、事実上重巡洋艦になりました。運用方法は、重巡洋艦と軽巡洋艦に変わりはありません。

 一方、駆逐艦は一等と二等に分かれていますが、これは1,000t以上を一等、1,000t未満を二等という基準でした。
戦艦長門
(4)「○○型」の意味は?
 日本海軍は「同型艦」や「姉妹艦」といって、同じ設計図で、同じ基本性能の艦を何隻も建造しました。

 艦隊で行動する時、例えば1隻だけスピードの遅い艦がいたら統制のとれた動きはできません。そのため、戦隊、隊は同じ性能の艦で構成するのが基本でした。同型艦を何隻も造ったのは、そうした背景からです。

 また、日本海軍の戦闘単位(指揮官が統率する部隊の単位)は、最低2隻から4隻でした。そのため、原則的に同じ型の艦は4の倍数を建造しました。有名な大和型戦艦は大和と武蔵の2隻が就役しましたが、計画上はやはり4隻です。

 太平洋戦争を戦った戦艦は大和型以外では金剛型(金剛、比叡、榛名、霧島)、扶桑型(扶桑、山城)、伊勢型(伊勢、日向)、長門型(長戸、陸奥)の4タイプでした。一方の巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などは、多くのタイプがありました。

(5)太平洋戦争期の日本海軍で、最も速い艦艇は?

 駆逐艦島風です。島風は公試(海上で行なう最終試験)で40.9nt(時速約75km)を記録し、日本海軍最速の艦となりました。もともと、外国艦艇の速力増大を受けて、40ntを目標値に建造された艦であり、見事に期待に応えたのです。

 ただしこれは、最大速力の話です。艦隊で行動する時には16ntから18ntを艦隊速力(標準スピード)とし、燃費を抑えました。また、公試は戦闘直前を想定しているため、燃料や食糧、水は3分の2ほど積み、弾丸は満載で行なわれます。当然、これらの艦載量次第で速度は大きく変動しました。島風も常に40ntで航行していたわけではありません。

 なお、戦艦は最大速力30nt程度を標準に建造されており、大和型もデータ上は最大27ntとなっていますが、レイテ沖海戦では、30nt近く出したという話も伝わります。