別冊正論「総復習『日韓併合』」より

藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)


戦後の日本漁船拿捕


 戦後、多くの日本漁船が周辺諸国によって拿捕され、乗組員が抑留された。その数は、昭和20年から40年の20年間で、中国によるもの187隻(2233人)、南朝鮮・韓国327隻(3911人)、台湾51隻(680人)、ソ連1164隻(9808人)に上った(『海上保安庁三十年史』昭和54年など)。

 図①は韓国に拿捕された漁船の位置を示したものである(昭和29年末まで)。韓国の拿捕は対馬北方から東シナ海北部そして黄海南部にかけての広い海域で行われ、とりわけ済州島周辺に集中している。
 東シナ海から黄海にかけては中国による拿捕も多発したが、西日本の漁業者にとって両国の拿捕・抑留の印象は異なる。どちらも漁船が銃撃を受けることがあり、韓国の拿捕では8人が死亡した(森田芳夫『日韓関係』48年。後の日本政府による補償認定では、昭和30年2月14日に五島沖で韓国艦艇に追突されて沈没した第6あけぼの丸の死者21人も加えられた)。

 一方、中国の場合は拿捕時に16人もの死者が出た(『日韓漁業対策運動史』昭和43年)にもかかわらず、「日中漁業問題には日韓漁業問題のような陰鬱さがない」と関係者は記す(『日本遠洋底曳網漁業協会二拾年史』43年)。

 日韓漁業問題の「陰鬱さ」の理由は三つある。まず、韓国の待遇の劣悪さ、とりわけ貧弱な食料事情と最長3年半を越す抑留期間の長さ。次に、中国による拿捕が昭和30年の
日中民間漁業協定で実質的に終結したのに対して、韓国の場合はその10年後の40年に日韓漁業協定が結ばれるまで、漁業者は拿捕の危険性に怯えねばならなかったこと。そして、抑留者を利用した韓国の「人質外交」(日韓会談代表で後に韓国の外相を務めた金東祚が1986年刊『回想三十年 韓日会談』で使用した言葉)に日本が振り回されたことで 
ある。

 この「陰鬱さ」から日韓関係を考えるのが小文の目的である。

 ただし、中国による拿捕・抑留には思わぬ弊害があったことは触れておかねばならない。日本人漁船員に対する思想教育である。

 昭和28年9月18日に博多に帰還した漁船員たちは「中共支給のレーニン帽と工人服に身を包んだまま…略…押し寄せた家族の喜びの呼びかけにも、一切物いわず、ただただ、腕を上下に振り、身を左右にゆすって、中国解放の歌や労働歌を、つぎからつぎから歌いまくるやら、中共礼賛の演説をぶつばかり」という光景があった(アサヒグラフ28年10月7日号)。

 26年に約4カ月間中国に抑留された元漁船員は、中国の待遇はよかったと回想し「思想教育など受けた覚えはないが、それでも最近まで中国を良い国だと思っていた」と私に語った。漁業者たちの「異文化体験」は、戦後日本が置かれた状況を考えるための貴重な資料である。
 

マッカーサーラインへの便乗


 「韓国人はたたく」。元漁業者への取材中、一人の言葉に周囲もうなずいた。日本人漁船員すべてが受けたのではないにせよ、韓国による拿捕時の暴行の記憶は元漁業者たちに共有されている。

 日本を占領支配していた連合国軍総司令部(GHQ)の文書の一つ「Korean seizures-Petitions」に5件8隻の拿捕事件の報告がある。うち3件で取り調べ時の暴行の証言がある。次は瑞穂丸船長報告の一部である。瑞穂丸は23年5月14日に拿捕され済州島に連行された。
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韓国・済州港にびっしりと係留された拿捕日本漁船。船体、漁具、漁獲物すべてが没収され、罰金も科された(アサヒグラフ昭和28年10月28日号)
 「私は警備船に呼ばれ、東経一二六度一二分、北緯三二度四八分に同意し捺印を求められたが、其の位置が事実と全く相違しているので、其の訂正を乞ふた処、警備船士官二名は顔面を十回位殴打し、口中よりは血を出し其の上堅木にて全身を乱打意識不明となる。

 余りにも無謀なる処置に唖然としました。此の状態では到底我々の意を解する事は絶対になく、意見を主張すればする程却って激昂し身に危険を感ずる計りと考へまして、不本意ながら右警備船の位置に同意しました。警備隊員は無線機、航海用具、船員私物等悉く持去りました(略)。

 十六日西帰浦より済州に回航当時本船に(士官一名下士官兵七名)計八名が懲戒の為乗組んだのであります。八名の三食を本船にて給与せねばならないので配給で限度のある為一食にはトウモロコシを入れたので其れに憤慨して我々に雑穀を入れて出した。馬鹿にしている。船長が命令したのであろうと云って、堅木にて十四、五回までは意識あるも後は意識不明となる」

 瑞穂丸の船長は、報告書の最後を、日本人乗組員が暴行を受けた理由について「外に此れという理由もありません。朝鮮人は日本人に如何に虐待を受けて来たかにあるようであります」と結んだ。35年間の日本の朝鮮統治に対する〝報復〟が東シナ海の海上で行われていた。

 韓国(当時は南朝鮮過渡政府)が拿捕位置の確認を強要したのは、瑞穂丸のマッカーサーライン違反を認めさせようとしたからである。

 マッカーサーラインは昭和20年に総司令部が日本漁船の操業の限界線として設定したもので、韓国とは本来無関係なものであった。25年1月19日に総司令部は「公海における日本の漁労活動は総司令部の命令によってのみ管理される」と日本漁船拿捕停止を韓国に求めた。マッカーサーラインを日韓の国境のように誤解し、連合国(=戦勝国)ではない韓国が連合国のようにふるまうことは日韓関係に悪影響を与えると、総司令部は危惧していた。

 しかし、同6月に始まる朝鮮戦争で国連軍(米軍)がまきかえすと、同12月に韓国は日本漁船拿捕を再開した。日本の漁業者は、米国の「防共の第一線に立つ韓国への甘やかし」が韓国の横暴を招いたと憤った(『日韓漁業対策運動史』)。