昭和18年(1943年)1月18日、戦艦武蔵(65、000トン)が連合艦隊の根拠地トラック島をめざし、広島・柱島泊地を出撃した。武蔵は建造中から連合艦隊旗艦となることが決まっていた。「大艦巨砲」の思想のもと、最後につくられた戦艦(大和型)で、初の出撃だった。

 岩手県一関市在住の吉野伊三郎さん(76)は17年6月3日、武蔵専属の理髪師(軍属)となり、2日後の5日、列車で横須賀から呉に着いた。武蔵は三菱重工長崎造船所で建造、呉海軍工廠に回航され、艤装(ぎそう)を受けていた。

 警備は厳重で、ドックはすだれで隠されていた。何度か誰何を受けた後、すだれをくぐって中に入ると、ちょうど目の前に三連装の巨大な主砲があった。「横須賀を出るとき、『世界一の船をつくっているから絶対に口外してはならない』といわれていたのですが、その大きさにおったまげました」

 武蔵の建造内命があったのは11年12月26日。13年3月29日、長崎造船所第二ドックで起工された。海軍省と三菱の請負契約によれば建造費は6490万円。武蔵は大和型戦艦の二号艦で、このとき、一号艦の大和はすでに、呉工廠で前年11月から建造が進められていた。

シブヤン海海戦で攻撃を受ける戦艦武蔵(Wikimedia Commons)
 戦後、三菱重工社長となる古賀繁一は武蔵の建造主任代理だった。建造を回顧した「古い思い出」の中で、「武蔵といえばどんな無理でも罷り通った。何度も工期が繰り上げられたが、そのたびに海軍工廠から加勢を受けた。すべてに武蔵が優先し、造船所の仕事は武蔵を中心に回転していた」などと振り返っている。

 大和型戦艦は、世界最大口径の46センチ砲を持つ高速戦艦をつくり、米国戦艦のアウトレンジから攻撃するという発想から生まれた。主砲の最大射程は41キロ。艦橋から視認できる水平線までの距離の、はるか向こうの敵艦を攻撃できる計算だった。艦政本部が総力をあげて設計、責任者は福田啓二造船大佐(のち中将)で、造艦の権威で東大総長を務めることになる平賀譲も顧問として助言した。

 すでに多くの出版物に紹介されているように両艦の建造は徹底的に秘密にされた。艦政本部の基本計画図面は軍機扱い、海軍省の予算書にも建造費は直接表れず、もちろん艦名も公表されていなかった。建造関係者は「家族にも漏らさない」という宣誓を求められ、長崎の二号ドックは外から見えないように有名な「シュロのすだれ」で覆われた。また、長崎には佐世保鎮守府から約50人の警戒隊が派遣されていた。

 元連合艦隊参謀の千早正隆さん(87)は武蔵の艤装員も務め、その模様を「戦艦武蔵の艤装」(雑誌「丸」別冊)の中で紹介している。千早さんはドックの対岸の洋館に住み、フェリーで通っていた。あるとき、艦がどのように見えるのか確かめようと、左舷前方で作業員の一団の中に目立つ背広姿で立っていた。すると、警戒兵から「そっちを見てはいかん」と一喝された。千早さんは艦の機密保持の責任者の一人で、「身分をあかすわけにもいかず、すごすごと後ろの方に隠れた」という。

 この様子を当時、第二ドック担当の技師で戦後、三菱重工常務となる竹澤五十衛が見ていた。竹澤は長崎造船所の歴史をつづった「回想百年」(同造船所編)の中で、「武蔵に従事する者は特別な腕章をつけたのですが、私はその番号が五番でした」と書いている。竹澤は建造前、上司から武蔵をつくるドックがどのように見えるのか調べろを命令され、いろいろな角度から見た図面をつくった。

 武蔵進水は15年11月1日。約36、000トン(艤装前の進水重量)の巨体が進水台を滑り降りるという当時としてはまさに世紀のセレモニーだった。当時、三菱職工学校に勤務していた金丸平蔵はドックの真上の高台で海軍部隊とともに警戒にあたり、進水の模様を絶好の位置から見ていた。「回想百年」の中で、金丸は「(午前)九時六分前、折からの満潮に化け物の巨体は滑り出ていた。天佑というのだろうか、十時ごろまでには霧で天然の煙幕が張られたようになった」と述べる。

 長崎市民は武蔵のことを化け物と呼んでいた。三菱が巨大な軍艦をつくっていることはみんな知っていた。当初は語るのもタブーだったというが、昭和17年に入ると、連戦連勝の勢いもあってか、「市民も公然と口にするようになった」と千早さんは回想している。

 理髪師の吉野さんが武蔵に乗り込んだ17年6月5日はミッドウェー海戦の日だった。まもなく、「空母四隻沈没」のうわさが、艦内をあっという間にかけめぐった。トラックまで武蔵を護衛したのは駆逐艦。戦闘機の護衛はなかった。

 武蔵がトラックに到着したのは1月22日。僚艦の大和が巨体を浮かべていた。武蔵の乗組員たちは「大和だ、大和がいる。それにしても、そっくりだ」と喜んだ。超弩級戦艦が2隻並んだ光景は壮観だった。しかし、大艦巨砲が物をいう時代はもう終わりを告げていた。(社会部 野崎貴宮)