武藤正敏(前駐韓特命全権大使)
黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在客員論説委員)


憂国、憂韓の書

黒田 日韓国交正常化が今年6月22日で50年になります。しかし、両国関係は氷河期のごとく冷え込んでいて、この大きな節目を祝うような雰囲気ではありません。

 そんな中、2010年から12年に韓国大使を務められた武藤大使が、両国関係について考察した『日韓対立の真相』(悟空出版)という一冊を世に出された。李明博氏による韓国大統領として初の竹島上陸、天皇陛下に対する土下座要求発言、ソウルの日本大使館前の慰安婦像設置と、日本で嫌韓・反韓感情が燃え上がるきっかけとなった在任中の“事件”も取り上げておられる。

 大使が退官されてまだ2年半余り。外交官、特に大使を経験された方がそれだけ早い時期に、赴任国とのシビアな懸案事項について書かれるのは極めて異例です。ソウルの日本大使館関係者からは、「大丈夫か」「なにかまずい話は入っていないか」という声も聞こえてきますが、私はこの本は、大使の「憂国の書」であり、それ以上に韓国を心配し憂うる「憂韓の書」であると受け止めています。

 大使とも意見が一致しているのですが、いまは日本の嫌韓・反韓感情のほうが韓国側の反日感情よりも強くなっています。特にいわゆる親韓派といわれる人々の多くが韓国離れしていて、事態は深刻です。韓国と長く付き合って愛情を感じ、もっと韓国を知り、理解すべきだと提言してきた結果がいまの日韓関係であり、みんな韓国の現状に気落ちしている。大使も同じことを感じられ、このままでは大変なことになりますよと韓国に伝えたいという衷情がこの本に表れています。「勇敢な憂韓の書」ですよ(笑い)。

武藤 この本を書いたことで、日本でも韓国でも私は批判を浴びるでしょう。それも覚悟の上です。日韓関係が急速に悪化した今、私の意見を率直に述べ、皆さんの議論の出発点とすることが、必要なのではないかと考えました。日韓関係のルールを変えないともはや収まらない状況になってきていると思います。韓国には反日はやめ、日韓関係を客観的に見てもらう必要があります。日本に改めてほしい点も書いていますが、韓国からすると厳し過ぎると感じられる点は多々あるでしょう。

 韓国についていま感じていることから始めます。第一に、韓国は相変わらずだな、という点。「日本は歴史認識を改め、過去を反省せよ」「日本は右傾化、軍国主義化している」と言い続け、現実を理解しようとしない。

 第二は、行きすぎた反日です。たとえば2011年8月に出された慰安婦問題をめぐる韓国憲法裁判所の判決です。韓国政府が対日賠償請求問題に具体的に取り組んでいないのは憲法違反であるという内容で、これ以降、韓国政府が改めて日本政府の責任を問い始めました。日韓基本条約と同時に締結された請求権・経済協力協定で日韓間の賠償問題は完全かつ最終的に解決しています。にもかかわらず司法の最高機関が、国交正常化の合意を無視して、国民感情を体現した判断をしたのです。

 そして、ソウルの日本大使館前の慰安婦像です。つくったのは、慰安婦問題に長年取り組んできた「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)です。韓国政府は発足当初から挺対協に対して何も言えませんでした。

 朴槿惠大統領は就任以来2年余り、日本の取り組みによる慰安婦問題の解決、進展が日韓首脳会談を行う前提だと言ってきました。しかし、安全保障問題で鋭く対立している国と国との間でさえ首脳間の対話は続けています。友好関係にあるはずの日韓の首脳が、一つの問題のため対話しないのは国益に反する。李明博前大統領が竹島に上陸したり、陛下に極めて非礼な発言をしたりもしました。これも従来なら考えられなかったことです。

 三点目は、政治、メディア、一部NPOなど声の高い人の反日感情が、一般国民の意識から乖離してひとり歩きをしていること。一般国民の対日感情はそれほど悪くはありません。四点目は、今は韓国の反日よりも日本の嫌韓のほうが強くなっている、ということです。こちらも手当てしないと日韓関係は良くならない。

挺対協に振り回される韓国政府

黒田 二国間関係の最大の障害になっている慰安婦問題からみていきましょう。この問題は、日本政府が河野談話を出し(1993年)、元慰安婦の女性たちに償いと謝罪、支援をする「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を官民共同で創設(1995年)したことで解決するはずでした。ところが、あくまで日本の国家としての謝罪と賠償を求める挺対協が納得せず、結果的に国民世論も同調し、それに押された政府も日本への非難、要求を蒸し返した。この本にも、韓国で日本のアジア女性基金の取り組みが挺対協によって後退させられていくプロセスが詳しく書かれていて、韓国政府が挺対協に振り回されてきたと指摘されています。

 なぜ挺対協という一運動団体に政府が振り回されているのか。そこには、韓国社会の変化、あるいは国家状況の変化があると私は考えています。韓国は“NGO国家”つまり“非政府国家”になってしまったということです。とくに左派系NGOが影響力を拡大した盧武鉉政権の時代から国家より個人が重要という社会的雰囲気になりました。官と民の力関係が変わって、官が民をコントロールできなくなってしまっている。

武藤 私も同じ問題意識を持っています。いわゆる「三金」、金泳三、金大中、金鍾泌氏のような実力者がいた時には、政府の野党対策も比較的容易だった。

 挺対協に話を戻しますが、彼らは、一部にあったかもしれないことが一般的であったかのように誇張し、慰安婦問題を国際社会にアピールしてきました。その事実関係の過ちが明らかになれば、問題解決の契機になると私は考えています。

 韓国内でもそのことを分かっている人はいますが、声を上げると社会的に抹殺されかねません。実際、『帝国の慰安婦』という本を読めば、挺対協の事実主張の誤りが分かりますが、この本は挺対協の支援を受けた元慰安婦の女性らの申請で発禁となり、著者の朴裕河・世宗大学校日本文学科教授が名誉毀損で刑事告発されています。朴裕河さんは真剣に日韓の和解を追求している学者です。その人の書が正当に評価されないのが今の韓国です。

 ただ彼らにも弱みがあります。彼らは、日本が元慰安婦の女性たちに償いと謝罪、支援をするため官民一体で1995年に立ち上げたアジア女性基金について、「日本政府の賠償責任を回避するためのまやかしだ」として全面否定し、元慰安婦の女性たちに受け取りを拒否させ、当初受け取った7人の元慰安婦たちに対して嫌がらせをしました。それが「元慰安婦を支援する組織」のやることですか。

 その後さらに54人がアジア女性基金の償い金を受け取りました。これは元慰安婦の立場を考慮し公表されませんでしたが、この時受け取っていれば、おばあさんたちにとって、より安らかな老後だった筈です。

 日本が、アジア女性基金のやり方や挺対協の妨害行為についてうまく情報発信をすれば、挺対協が盛んに運動しているアメリカでの評価も変わるでしょう。挺対協の主張する事実関係の誤りが理解され、挺対協に対する支持が弱まれば、彼らに扇動されている格好の韓国社会の状況も変わるのではないでしょうか。

黒田 しかし、アジア女性基金式の解決策は、本誌の読者には受け入れられないかもしれません(笑い)。その読者の怒りに火に油を注ぐようなことを敢えて申し上げますが、私自身は、慰安婦問題で改めて外交決着をすべきだと考えています。第一次が河野談話、第二次がアジア女性基金で、第三次外交決着です。

 そこで課題となるのは、NGO国家となった韓国が、もう一度国家としての権威を取り戻して、日本と外交決着を図る意志を持てるかどうかです。朴槿惠大統領は、世論の大反対を戒厳令を敷いてまでして押し切って日韓基本条約を締結した父親の朴正煕大統領のように「歴史が判定してくれる」と決断できるのか。

 慰安婦問題の解決に向けての一番の障害である挺対協ですが、日本は国家的、法的な責任を認めろというのが彼らのコアな主張です。韓国の外交当局者も本音では、それは無理だということは分かっていますが、猛烈な批判を恐れて声を上げることができない。

 しかし、その挺対協も韓国内で孤立しつつあるんです。アジア女性基金への妨害行為で、彼らの運動が本当に元慰安婦のおばあさんたちのためのものなのかと、朴裕河教授らが問題提起し運動を始めている。日本が受け入れられないような強硬な主張をすることでおばあさんたちの救済を遅らせているのではないか、という批判が出はじめているのです。

 そうした真っ当な考え方が挺対協の強硬な主張を押し切れば、韓国政府も、人道的、道義的責任において対処するという日本にも可能な範囲での取り組みを受け入れる名分が立ちます。朴大統領も「おばあさん方は余命いくばくもないから、早期に温かい配慮を」と言ってるわけですから。そうなれば、日本の外交当局者も頭がいいから、いろいろなアイデアを出してくると思います。

 日本の世論は新たな外交決着に簡単には納得できないかもしれません。河野談話にしてもアジア女性基金にしても、解決のためとはいえ事実でない強制連行を認めるような形になったり謝罪を繰り返したりしたことで、逆に事態の悪化を招いていると多くの日本人は見ています。今回改めて謝っても、さらに事態を悪化させるだけではないかという懸念は消えない。

武藤 私は挺対協の主張は論外だと思います。彼らの言うラインでの解決などあり得ません。韓国は、日本との関係においては、倫理的、道徳的に優位に立とうとします。しかし、いったん韓国側の論理を否定し、その誤りを正したうえで、日本人としての気持ちを示すということであれば、日本が道義的に上位に立つことになり、韓国は二度とこの問題を提起できません。そういう形であれば、日本国民もやむを得ないと考えてくれるのではないでしょうか。

 いわゆる歴史教科書問題についての宮澤官房長官談話(昭和57年8月)でも、「(日本)政府の責任において(教科書の記述を)是正する」と書かれています。韓国や中国から批判されたのではなく、日本の判断で取り組むのだと明確にしています。

前駐韓日本大使の武藤正敏氏
黒田 近隣諸国条項ですね。ですが大使、近隣諸国条項も本誌の読者には、自虐史観的教育を蔓延させたと思われています。むしろ「自虐史観に染まった外務省が近隣諸国条項を主導した」と思うでしょう。あれは韓国とはコトを荒立てないという、過去の事なかれ外交の典型例でしょう。

武藤 私は歴史問題について、韓国の主張する歴史認識に日本が妥協するのはもう止め、お互いに客観的事実を探究していくべきだと考えています。それが日本国民の嫌韓感情に応える道だと思います。今までのやりかたは日韓関係にプラスにならないと思っています。

黒田 なるほど。日韓が膝を詰めて議論をしてもなかなか出口は見えてきません。問題自体が国際化していて、国際世論を味方に付けることも重要です。その国際世論を動かせれば、挺対協を孤立させ、当事者能力を失わせることは可能だと思います。

 そのうえで、拡大版の女性基金を構想するのはどうでしょうか。アジアではなくて世界女性基金。安倍首相も国連やアメリカで女性の人権問題を取り上げています。その観点を入れて、紛争地域や戦地における女性の人権保護、あるいは将来に向けての女性の人権保護拡大といったように問題を拡大する。その趣旨の中に、過去の教訓として慰安婦問題を入れ込めば、国際世論を日本の味方にできるのではないでしょうか。脱北女性の問題を入れてもいい。

武藤 狭義の強制性はなかったのだという議論がありますが、強制性を日本が否定して国際的には理解を得られませんでした。黒田さんがおっしゃったような解決策を提示する一方で挺対協のアジア女性基金に対する歪んだ姿勢や、事実主張の誤りを国際社会に説得していけば、間接的な形ではありますが、強制性に関する日本の主張を理解してもらえるのではないでしょうか。