野口裕之(産経新聞政治部専門委員)

 4月7日を迎えた。大東亜戦争末期の昭和20(1945)年のこの日、大日本帝國海軍の軍艦・大和が、米軍による攻撃で没した。巨体は今尚、長崎県男女群島沖の海底に横たわる。暗い海底に眠る大和の無念など忘却の彼方。バブル景気に沸く昭和62年12月、大蔵主計官が言った。

 「昭和の三大馬鹿査定と言われるものがある。戦艦大和、伊勢湾干拓、青函トンネルだ」

「大艦巨砲主義」を捨てていなかった米国


 主計官は「整備新幹線計画を認めれば、これらの一つに数えられる」と続けた。運輸族議員が地元に整備新幹線を引こうとする“我田引鉄活動”が、財政を一層悪化させる懸念を示したのだ。脳裏にはけだし、華々しき戦果もなく沈められた大和の最期と、「大艦巨砲主義」への反発があったと思われる。

 だが、大和設計時の1930年代、強力な艦砲と厚い装甲に鎧われた巨大戦艦を航空機で撃沈する戦法は、航空機と投下する爆弾・魚雷の精度・信頼性が完全でない現実もあり、懐疑的見方が多かった。米軍はじめ列強も同じ。確かに、航空兵力を、海上艦艇を含む全目標への攻撃兵器と位置付けた米陸軍のウィリアム・ミッチェル少将(1879~1936年)は第一次世界大戦後の1921年、ドイツ海軍から捕獲した戦艦を航空機で撃沈する実験に成功した。ただし、陸海軍の理解を得られていない。逆に陸海軍最高統帥部の方針を批判し25年、軍法会議で停職5年の有罪判決を受けた。

 むしろ、米海軍は大東亜戦争を通じ、戦艦量産方針を転換していない。一方、帝國海軍では、空母を軽視してはいない。日米の戦艦・空母の建造数や総トン数、建艦率などを分析すれば明らかだ。米国は「大艦巨砲主義」と、航空戦力を軍の主軸に位置付ける「航空主兵主義」を両立できるだけの工業力=国の底力を持っていたのである。

 とは言え、大和完成時の40年代に入り、補助兵力に過ぎなかった航空機と搭載兵器の性能は飛躍的に向上。大東亜戦争劈頭で、航空主兵主義に事実上の先鞭を付けたのが帝國海軍であった戦史は皮肉だ。英海軍機がイタリア海軍の戦艦を沈めたタラント空襲(40年)や布哇(ハワイ)海戦(真珠湾攻撃/41年)などは投錨中の軍艦に対する攻撃だったが、作戦行動中だった英国自慢の「最新鋭巨大不沈戦艦」など2艦を葬ったマレー沖海戦(41年)は見事と言えよう。英国は第一次大戦中の18年、早くも空軍省と空軍を創設しており、先駆けのはずだった。ウィンストン・チャーチル首相(1874~1965年)をして「戦い全体の中で、マレーの報告以外に、私に直接的な衝撃を与えた報告はなかった」と言わせている。もっとも、その後も航空機による戦艦撃沈はそう多くはない。

現代に活きる最新技術


 大和の話に戻る。「馬鹿査定」と放言した主計官もいるが、お国のために口を閉ざした主計官もいる。大和の全長は、完工時日本一の高さだった都庁舎(東京・西新宿)より長い263メートル。艦底から前部艦橋までの高さは19階建てビルに相当する。建造費も“超弩級”で、国家予算の3%に当たる1億4000万円に迫る。従って、機密保持と予算のやり繰りのため、大和と2番艦・武蔵の昭和12年度予算は3万5000トンの戦艦に加え、駆逐艦3隻と潜水艦1隻をダミーとして計上した。当時の大蔵省高官は国益に鑑み、海軍省に協力している。「大蔵省も欺いた」との説もあるが、大蔵官僚にも「国士」がいたことは確かだ。

 ところで、前述の主計官が大和に満載された最新技術の数々を知っていれば、言い振りが少々変わったかもしれない。

 主計官も使っただろう霞ヶ関近くのホテル・ニューオータニ(東京・紀尾井町)の回転展望レストランには、大和主砲塔の回転技術が活用された。砲塔1基の重量は2800トンと、駆逐艦1隻分の重さで、その回転技術が高度だったことは疑いもない。

 21.13メートルの主砲砲身からは重量1.46トンの砲弾が42キロも飛ばせた。風呂屋の煙突より大型乗用車が飛び出す構図。従って、製造に投入された工作機械は、戦後の大型船舶のクランク軸製造に転用された。砲塔旋回や砲の上下、弾薬庫からの砲弾揚弾は水圧式。そのノウハウは現在、原子炉圧力容器の漏れを調査する水圧実験に投じられている。

 攻撃目標までの距離を測る測距儀(距離計)は幅15メートル以上で性能・大きさ共に世界一。カメラのピント合わせの技術が用いられ、戦後日本の精密光学機器発展を下支えした。

どこが「馬鹿査定」なのか


建造中の当時世界最大のマンモスタンカー「日章丸3世」
(13万9千重量トン)。全長291メートルで14万キロリットル
もの原油が積める巨大タンカーだ。
 大和は全長に比べ艦幅が世界一広かった。巨砲を安定させ、装甲を厚くし、防御力を高めるには広い艦幅が必要だが、速度は鈍る。そこで、人間の下あご様の球状艦首=バルバス・バウを開発し波抵抗を減じた。馬力節約に伴う航続距離延伸を呼び込んだのだ。巨大タンカーなどは今もって、この原理を使う。

 また従来、艤装(装備工事)の大半は進水後だったが、大和では船体組み立てと並行して行われ、工期短縮につなげた。技術は造船業に加え高層ビル建築で、今に活きる。

 このほか半導体加工に応用された研磨技術に始まり、生産管理システムや発電・配電/製鋼/機関・スクリュー・操舵/弱電…などは、戦後復興と高度成長を創造する技術力の源泉となり、現在も進化を続ける。

 持続可能な次世代エネルギー誕生にまで貢献している。東北大学などは宮崎県日向市美々津町で一昨年10月、使用済み酸化マグネシウムを1200度以上に加熱し、還元再利用できる新燃料電池の開発を始めた。太陽光を一点に集め、高温を作り出す直径150センチもある巨大鏡は大和が備えた探照灯(サーチライト)の予備部品で、12キロ先の目標を照らす優れモノだった。

 奇しくも美々津町は、神武天皇が大和(地方)東征のため、軍船を船出させた日本海軍発祥の地。大和も最後の出撃に際し、町の沖合を通航した。それは大和の短かった生涯1181日の内の一日。主砲に至っては、実戦で300回程度しか火を噴いていない。

 それでも尚、大和が生んでくれた遺産の数々を思う時、一主計官如きに「馬鹿」呼ばわりして欲しくはない。