反知性主義論の系譜

 
 「反知性主義」という言葉が近年にわかに注目を浴びるようになり、今年の流行語大賞の候補になるかもしれないという。この言葉をテーマに本や雑誌の特集が組まれ、わたしも何度かその執筆に加わった。ただ、それらの特集は、「反知性主義に陥らないために」などと銘打たれており、この言葉が人々にどのような意味で受け止められているかをよく示しているものの、それがわたしの理解とは大きく異なっており、執筆に躊躇を覚えることもあった。その執筆依頼の趣意書に拙著が引用されたりしていれば、なおさら居心地が悪い。



『反知性主義』森本あんり著
(新潮社)
 すでに何度かインタヴューや対談で語ったことだが、わたしの『反知性主義』(新潮社刊)は、こうした近年の「反知性主義」論ブームとはひとまず無関係に書かれたものである。同書で説明したように、「反知性主義」という言葉には特定の名付け親がある。

 1950年代のマッカーシー旋風をきっかけに、アメリカの反知性主義の歴史をたどったホフスタッターがその人である。以後このテーマは、アメリカ研究の分野ではしばしば論じられてきており、たとえば5年前のアメリカ学会でも、わたしを含む4人の研究者によるシンポジウムで取り上げられている。もちろん、反知性主義などという言葉が日本のメディアに登場するずっと以前のことである。

 今回のわたしの著書は、自分がそれまでに考えたり書いたりしてきたことを一般向けに書き直したもので、たまたまその刊行時期が別の著者たちによる反知性主義論と重なったまでである。

日本に反知性主義はあるのか


 言葉というものは時代や文脈ごとに新しい意味を獲得し内容を変化させてゆくので、「反知性主義」という言葉が以前とはまったく別の意味をもって使われるようになったとしても不思議ではない。わたしはこの言葉を使う者がすべてアメリカ史における用語法を踏まえるべきだと主張したいわけでもないし、半世紀前の議論を今後もそのまま繰り返していればよいと考えているわけでもない。

 ただ、以上のような経緯から、「現代日本の反知性主義をどう考えるか」などと質問されると、やや醒めた答え方をせざるを得ない。それぞれの論者がこの言葉に盛りつけている意味が曖昧なままで、結局は各自が自分なりの定義による同語反復の議論を繰り広げるばかりだからである。

 もしこの言葉を本来的な意味で受け止めるなら、問われるべきなのはむしろ、現代日本に反知性主義と呼べるものが存在するのか、ということでなければならない。

 教育社会学者でちょっとダジャレ気味の竹内洋によると、日本にあるのは「反」知性主義ならぬ「半」知性主義だけである。筋金入りの知性主義がないところでは、それに対抗すべき先鋭な反知性主義も生まれない。そして反知性主義の批判に晒されることのない知性主義は、自らを研ぎ澄ます機会をもつことなく鈍磨してゆく。現代日本がかつてのような知的生産力を失って閉塞状況にあるとすれば、それはこのような悪循環がもたらした当然の帰結だろう。反知性主義が蔓延しているからではない。反知性主義が足りないから、知性が前進しないのである。

反知性主義に必要な腹の括り方


 では、なぜ日本に反知性主義が根付かないのか。それは、反知性主義に必要な覚悟や信念がないからである。知性のヘゲモニーに対抗するには、それに負けないだけの精神の力が必要である。知性は権力と結びつきやすい。そして、権力と結びついた知性は固定化し、特権階級化し、自己永続化を図る。反知性主義とは、このような結びつきに楔を打ち込もうとする努力である。したがってそれは、知性そのものや知性の本来的な活動に対してではなく、それが結びついた権力に対する反対でなければならない。

初期のハーヴァード大学の紋章
 ピューリタニズムに始まるアメリカ史では、これは「ハーヴァード主義・イェール主義・プリンストン主義」に対する挑戦となる。これら東部のエリート大学の出身者がどのようにして徹底的な知性主義を築き上げたか、かつそれにも関わらず、その権威に対して何の学歴もなしに昂然と立ち向かうことのできる精神がどのようにして立ち現れたか、ということが焦点となる。このように峻厳で創造的な相克の歴史からすると、日本が「学歴社会」であるというのもまた微温な幻想と言わざるを得ない。

 知性が結びつく相手は、学問や政治の権力ばかりではない。芸術や宗教の分野にもあり、芸能界やスポーツ界にもある。人々はそれを「伝統」「通説」「巨匠」「大家」などと呼ぶ。権力という鎧を身にまとった知性は、まさにその故に硬化し、自らも発展や改革の余地を失ってしまう。だから反知性主義は、知性の刷新と進化をもたらすのである。反知性主義が掲げる「知性への反対」は、あくまでも「既存の」知性への反対である。それは、知性そのものの蔑視や欠如であるよりは、「新たな知性」の模索と開拓である。

 ここで思い出されるのが、日本人は「異端」好きだ、という丸山眞男の言葉である。ただしそれは、居酒屋の隅で「どうせオレは異端だから」と愚痴をこぼすだけの「隅っこ異端」である。正統に挑戦するだけの胆力もなく、表舞台では既存の正統とお行儀よく共存してしまう異端である。反知性主義を掲げるなら、こんなチープな異端であってはならない。無責任な万年野党の独り言であってはならない。それは、「学界の風雲児」などとマスコミにもてはやされることでもなく、そもそも異端を標榜することではなく、正々堂々と「正統」を名乗り出ることである。当該分野の内部で「自分こそが王道である」と正面切って立ち上がり、その言葉に自分の存在をかけることである。そういう覚悟もなしに、反知性主義を標榜するのは滑稽である。

不屈の巡回伝道師

アメリカ批判の根拠としての神学


 そのような正面切っての挑戦に必要な精神の根拠を与えてくれるものは何か。アメリカ史では、それは宗教的確信であった。反知性主義のうねりは、アメリカ社会を繰り返し大きく変貌させてきた平等主義的な信仰復興(リバイバル)の波となって現れた。だから反知性主義の由来を尋ねることは、アメリカのキリスト教史を追うことになるのである。リバイバル集会では、大銀行の頭取とすすけた炭坑夫が同じ粗末なベンチに並んで座る。どちらも神の前には一人の罪人にすぎず、どちらも恵みによって救われるべき尊い人格だからである。反知性主義は、このラディカルな平等主義を養分として成長した。

 なお、日本では「欧米」と一括りにされるが、「欧」と「米」ではキリスト教の形態はまったく異なる。アメリカは、何とかして旧世界たるヨーロッパから知的にも宗教的にも独立したいと願い続けた国である。アメリカをキリスト教の「本家」や「本場」のように考えている人があるが、もはやそういう時代ではない。そして神学は、アメリカ批判の根拠を手に入れるために必須の学問である。アメリカのキリスト教を批判することなくして、アメリカの中枢を批判することはできないからである。

 考えてみると、「学者・パリサイ人」という当時の知的・宗教的権威にラディカルな否定を突きつけたのは、イエスであった。その点ではお釈迦様も同じだったし、性質は異なるがムハンマドもそうである。宗教的な確信は、地上の権力を怖れない。ものわかりのいい仏教とか、飼い慣らされたキリスト教とか、牙の抜けたイスラム教だけの世界には、反知性主義は育たないのかもしれない。