兵頭二十八(軍学者、元自衛官)

天才作家、士官学校入校と退校の謎


 主人公キャラクターの「オーギュスト・デュパン」以下、近代探偵小説の設定パターンを世界にさきがけて確立した米国の天才作家、エドガー・アラン・ポー(1809生~1849没)は、ウェストポイント士官学校に8ヵ月間強、在校していた(1830年7月1日~1831年3月6日)。

 このときの士官学校校長は、シルヴァヌス・セイヤー(1785生~1872没、校長在任1817~1833)。初代の校長でこそなかったけれども、彼がウェストポイントの諸制度を、フランスの「エコール・ポリテクニーク」を模範に、ほぼ一人で完整した。そしてウェストポイントは、当時の米国の諸大学に欠如していた「理工学部」「工科専門大学」のパイロット校となったのだ(ちなみにセイヤーは生涯独身)。

 もしもこの工兵大佐(退役後に名誉准将)がいなかったならば、蒸気機関時代に突入する19世紀に、米国海軍や鉄道界、土木業界等が、その必要とした多くの人材を欧州のライバル国に依存せずに国内でまかなえたかどうかは、あやしいのである。また、果たして20世紀に世界最初の原子爆弾を完成できたかどうかも、わからない。それほどに、セイヤーとウェストポイントの貢献は、「数学教育を基礎とした合衆国のスーパー・パワー化」に関して至大であった。

 同校におけるセイヤーの数学の直弟子の一人が、工兵将校デニス・マハン(1802生~1871入水自殺)だ。

 デニスはじぶんの息子のアルフレッド(1840生~1914没)のミドルネームに恩師の姓を拝借した。そのアルフレッド・セイヤー・マハン提督が、後に、有名な海軍地政学(シー・パワー論)の唱道者となった。米国海軍を近代化させたのも、じつはウェストポイント陸軍士官学校の卒業生たちなのである。

 さて詩人作家のエドガー・アラン・ポーだが、彼の祖父は、独立戦争中にフランスから19歳で渡米してきた有名なラファイエット侯爵(すぐに米陸軍の少将の階級を与えられる)のための補給廠長(クォーター・マスター・ジェネラル)を買って出ている、メリーランド州の地方名士であった。この両者は文字通りの古い「戦友」なのだ。

 それで孫のエドガーも、人文系の古典教養その他を身につけた一方で、軍人たちの世界を嫌いではなかった。しかし彼があらためてウェストポイントへ入る気になった動機は、仔細には解明されていないミステリーである。

 通説では、エドガーは幼にして孤児となっており、養父もその頃は頼みにならず、みずから賭博の借金もあったエドガーは任期制の兵隊勤務で生計を立てていたが、彼の能力を見込んだ要塞司令官が推薦状を書いてくれて、本人もまた、士官学校で欧州最先端の諸学を履修することには興味があったのであろう――と思われている。

 しかし、そもそもどうして入校ができたのかを、不思議とせねばならない。というのは、セイヤー校長は、士官学校には「メリット・システム」、すなわち、縁故贔屓一切なしの、あくまで学才本位の選考が不可欠だと堅く信じていた人物で、1830年頃にはそのポリシーは誰にも邪魔されずに学生選びに貫徹されていた筈だからだ。(1833年にセイヤーが放校した不良生徒をアンドリュー・ジャクソンが大統領命令で復校させるという政治介入事件があり、セイヤーはそれを潮に校長を辞し、ボストン地区の工兵総監へ転じた。)

 普通に数学の成績が良い、というレベルの青年だと、ウェストポイントへの入学は容易ではなかった。

 エドガー・アラン・ポーは、同期生中、語学の成績は3番だったが、科学(内訳不明)では17番だったという。また彼のルームメイトの証言によれば、ウェストポイントが要求する数学の水準の高さに、ポーは参っていたという。

 近代将校や公共土木工事技師の素養として「数学」を最重要視していたセイヤー校長ではあったが、あるいは、ポーの抜きん出た外国語知識が、他の領野の不足をカバーするように思えたので、入校許可を出したのかもしれない。セイヤーは、米国にも英国にも存在しなかった最先端の「工兵教範」を得るため、士官学校生徒を動員して仏軍のマニュアルを英文に訳すという事業を継続していた。その要員にポーのような若者は使えると期待したかもしれない。

 エドガー・アラン・ポーが士官学校を退校するさいのゴタゴタについては、さらに多重の謎に包まれている。ポーはわざと朝の点呼に出ず、授業を無断欠席し、課業終了時の隊列行進をサボるなどし続けた結果、首都ワシントンにおける軍法会議にかけられ、公式に放逐されたのだった(判決記録はウェストポイント内の図書館に保存されている)。

 ところがその一方でポーはセイヤー校長に、「これからポーランドの独立派に加わって帝政ロシア軍と戦いたいから、推薦状を書いてください」と頼み、セイヤーはそれに応じてやったともいわれる(尤も、その明白な証拠文書はないらしい)。ポーが在学中に詩集を私費出版するにあたって、同期の学生たちが75セントずつ醵出することをセイヤー校長が許可したことは、確かなようである。

 もしそのような信頼関係があったのなら、あるいはポーに特別な目的意識があったのならば、なぜポーは直接に校長に、「中退したい」と相談をしなかったのか?

 カネに困って1827年に陸軍二等兵に志願したときの契約任期が5年間であったとしても、1831年にはそれは満了するわけである。とするとやはり、1830年7月にまさに勃発した「七月革命」(シャルル10世がパリ市民によって放逐され、ルイ・フィリップが新王として迎えられた)および、その騒ぎをロシア皇帝がポーランド兵を動員して鎮圧しようとしたことから生じた1830年11月29日のワルシャワ士官学校生徒主導の反露武装蹶起(カデット・リヴォリューション)に刺激され、すぐにもポーランドで一暴れしたくなったのかもしれない。そしてセイヤー校長が後で責任を問われるようなことがないようにするため、芝居が必要だったのかもしれない。

 当時の欧州情勢には、すでに50歳になっていたベルリン陸軍大学校校長クラウゼヴィッツすらも大興奮している。クラウゼヴィッツは『戦争論』の執筆も中断して、無理に願い出てポーランドのプロイセン占領区の治安強化部隊に加わり、ポーランドまで赴任したところでコレラに罹患。1831年11月に急死するのである。けっきょくプロイセン宮廷はロシアに好意的な中立を保つ。けれども、ポーランドの自由を内心で応援する人士がドイツ諸邦には多かった。クラウゼヴィッツ自身も、内心では君主制に見切りをつけていた(詳しくは兵頭編『新訳 戦争論』に譲る)。

 ナポレオン戦争後の数十年間、米国側からは「共和主義革命の輸出」が唱えられ、欧州の保守的宮廷の側からは、隙あらば米国共和制など圧殺すればいいという、緊張関係が継続した。ルイ・フィリップ治下のフランス軍は1838年末に、債務を履行しないメキシコ共和国に軍事進駐したし、またナポレオン3世は1863年にメキシコに傀儡政体を樹立した。米国はその企てを排除するのに1867年までかかっている。

 ポー研究家のジェフリー・スタインバーグ(Jeffrey Steinberg)氏の調べによれば、ポーはじっさいに1832年に、諜者または工作員として、他の幾人かの文人や「画家」らと前後するように渡欧したのだという。この話はとても興味深いが、詳しく詮索する余裕が今はない。いずれにしてもポーランドの反露独立戦争は1831年10月末には鎮定されてしまった。ポーランドから亡命してきた将校たちの多くは、蹶起当初からの声援者であり、ポーの祖父の戦友である、パリのラファイエット老将軍が保護したのだった。

「数学万能」主義への反発


 米国におけるポーの著作発表は、1832年から立て続く。そして放校されてもポー元生徒は、ウェストポイントに関しては、セイヤー校長への尊敬しか口にすることはなかったそうだ。

 されども作家のポーは、「数学万能」主義についての反発だけは、いちど存分に作中で言語化しておかなければならぬと思ったように見える。1845年発表の「盗まれた手紙」という短編小説がそれだ。

 あらすじを述べよう。

 物語の語り部の「私」が、パリ郊外にある犯罪研究家デュパンのアパートで、デュパンが最近解決した難事件の話を聞いていると、そこに旧知のパリ警視総監が訪ねてくる。用件は、政府の某閣僚が宮廷の貴人から盗んだ、公表されれば大騒動となること必至の手紙を、甚だしく悪用されないうちに、なんとか密かに回収して欲しい、との依頼であった。

 犯人の閣僚氏は、ここぞというタイミングでその手紙を表沙汰にしてやれるよう、かならず住居内のどこかにその手紙を隠し置いてあるに違いないと、警察では睨んでいる。そこで、件の閣僚氏が住居を毎晩留守にするのに乗じ、捜査員たちを侵入させては、屋内を方眼に区切るなどしてしらみ潰しの隠し穴探索を反復したのだけれども、どうしてもそれを発見できないのだという。

 話を聞いたデュパンは堂々と件の閣僚氏を訪問し、応接室のよく見えるところにある状差しのどまんなかに、その肝腎の手紙が、半ば引き裂かれた、薄汚れた封筒に入れて堂々と置かれていると見破って、奇計を用いてすりかえて持って来てしまった。

……と、プロットはシンプルながらも数学的に濃密に構成された短編小説(ポー以前は近代文学ジャンルとして未確立)の末尾部で、デュパン――すなわち作者ポーの分身――は、〈数学教育は万能にはほど遠い〉という自論を開陳する。

 近代フランスの高級官僚である警察幹部たちは、皆、試験エリートで、数学の秀才揃いでもあるわけだが、件の閣僚氏のような、たんに数学ができるだけでなくて「詩人」でもあるような異質な才芸者が企むことを看破することまでは期待し得ない、とデュパンは断ずる。

 言い換えると、数学秀才は、出来合いの公式のある手順をおおがかりに徹底して物理に応用することができるだけで、異質の人の心の中を見抜けない。

 これが、陸軍士官学校落第生徒総代のエドガー・アラン・ポーによる、当世流理工系教育への、14年遅れの惜別の辞であった。