「反知性主義」とはもともとアメリカのキリスト教原理主義者達が進化論等の科学的分析に対し反発した事等を指したものでした。かなりの社会的地位のある人達が平然と科学的分析を否定し、キリスト教の絶対性を説くといった現象は他の国にはあまり見られないものでした、アメリカ建国以来、何度かにわたって訪れたリバイバリズム(信仰復興運動)とも密接な関係があるとされています。

 アメリカという国自体、旧イングランドを脱したピューリタン達が神との新しい契約のもとで「新しいイングランド」を創設するという壮大な実験でした。そしてそのリーダーシップをとったのは高学歴の牧師達でした。彼等は入植後わずか一六年で牧師養成機関としての大学、ハーバード大学を作ったのでした。知性を重んじるこうした動きは、次第に権威と結びつき、アメリカのエスタブリッシュメントになっていったのです。

 こうした権威に対して民衆に信仰を取り戻すという運動として、新たな布教運動が拡がっていったのです。その主導者達は教会を持たず牧師の資格も持たず命がけで土地・土地を巡り布教活動をしていったのでした。大衆をターゲットにし、神の前の平等を説く彼等の辻説法は、人口が爆発的に増え、同時に生まれた字も読めず教養もない層に熱狂的に受け入れられたのでした。それが反知性主義の原点であり、極端に言えば、アメリカという国の原点だったのです。つまり、アメリカの反知性主義はアメリカ的宗教革命だったということもできるのでしょう。

 そして、反知性主義は大衆民主主義(マス・デモクラシー)が拡大する中で権力が大衆に媚(こ)びる手段にもなってきたのでした。知識人、あるいはインテレクチュアル、は社会のエリートであっても少数派です。知性主義を否定し、法の前の平等、実用主義等を説き、権力が直接大衆にアッピールするためには反知性主義は有力な手段の一つにもなりうるという訳なのです。

 そして、現在の日本。2015年6月8日、文部科学省はこれまでの学部を「社会の要請」にあわせて見直しを行うように全国の国立大学に対して通知を行ったのでした。中でも、文学部をはじめとした人文系の学部、大学院に対して廃止や配置転換を求める意向だと理解されています。社会に直接役に立つ理系の学部を拡張し、人文科学系を縮少し「社会の要請」に答えるというのですが、こうした即物的プラグマティズムで学問を評価してしまう事は、まさに反知性主義であり、学問そのものの深い意味を否定することではないでしょうか。

日本武道館で行われた東京大の入学式
=4月13日、東京都千代田区
 古代ギリシャでは「哲学」は学問一般を意味し、認識論、倫理学、存在論等を含むとされていました。まさに学問一般の原点が哲学だったのです。哲学を意味するフィロソフィーは直訳すれば愛智学。ソクラテスやプラトンが確立した学問の原点でした。

 しかし、今回の文科省の通知はその哲学を含む人文科学系の学問の縮少を意図しているもののようなのです。長い一六世紀(1450年~1640年)から続いてきた近代資本主義が終焉を迎え、新たな地平を求めなければならない現代は、従来にも増して本来の「哲学」が求められる時代ではないでしょうか。フランスの歴史家マルク・ブロックは現代が「かつてないほどに哲学的な問いに直面する時代」だと言っています。

 世界的にも人文科学系学部の縮少の動きが起こっているようで、2010年には大陸哲学研究で知られるミドルセックス大学哲学科が廃止の危機に瀕しています。その時、多くの世界的哲学者達、スラヴォイ・ジジェク、エティエンヌ・バリバール、デヴィッド・ハーヴェイ等が強い抗議の意を表明しています。哲学をかつてない程必要としているこの時代、逆に哲学研究は世界的に軽視されてきているのです。

 日本では長い間、特に第二次世界大戦後、大学の自治、学問の中立性が重んじられてきました。たしかに、哲学や文学は直接的、短期的には社会に「役に立つ」ことはないのかもしれません。しかし、長いスパンで見た時、その役割は極めて大きなものだといえましょう。こうした人文科学の中長期的な役割を守るためにも、大学の自治、学問の中立性は守られるべきです。文部科学省のその時々の政策によって大学の内容や学問のあり方が変わってしまうのは問題だと言わざるをえません。学問は「政治的」であってはならないからです。

 もちろん、大学は独善的であってはなりませんし、大きな時代の流れには対応して行くべきでしょう。しかし、その事と短期的に社会の役に立つべきだということとは全く別のことです。役に立たないと言われる学問を根気よく続けることも、又、大切なことなのではないでしょうか。そして理系の学問に比べ人文科学系の学問は相対的にはそうした性格を持っているといっていいのでしょう。日本の大学では長く最初の2年を教養を身につける期間として専門分野に入る前に幅広い分野の学科、特に人文系の学科を課してきました。近年、専門性を重んじるあまりそうした教育を軽視する傾向が若干強まってきたことは残念なことです。専門的に深い知識を身につけることと、幅広い分野に通じていることとは両立しますし、両立しなくてはなりません。専門的知識さえ身につければいいという考え方は、ある意味では、「反知性主義」だということができるのでしょう。本物のインテレクチュアルは深い専門知識を持つとともに、幅広い知識を持つ人達でしょう。かつてのレオナルド・ダ・ヴィンチ、あるいは、アルベルト・アインシュタインはともに深く幅広い知識を持っていました。そして人文科学的教養はそうした幅広く深い知識のベースになるものなのでしょう。