川村二郎(元『週刊朝日』編集長)

見てきたような嘘


 私が高校野球を担当したのは1965年、朝日新聞の記者になって2年目の夏だった。そのころ小さい県は1県1校ではなく、私の赴任した大分は隣の熊本県代表と中九州大会をして勝たなければ甲子園に出られなかった。

 1965年夏、大分の出場校は30校に満たなかった。スタンドの観客もまばらで、観客の雰囲気を伝えるスタンド雑観の取材には連日、苦労した。

 その年の福岡代表は大牟田市の三池工である。大牟田ではその前の年に大きな炭坑事故があり、約400人が亡くなった。三池工は悲劇の町の代表として注目はされたが、スター選手がおらず、地元でも「奇跡の出場」と言われていた。率いたのは原・巨人監督の父、原貢さんである。

 三池工についてきたのは、朝日新聞福岡総局のS先輩だった。先輩は甲子園にくる直前、パパになったばかりで、赤ちゃんを抱いたことがない。1日も早く福岡に帰りたかったのだろう。

 「明日は負けて帰るよ」

と、毎日、言っていた。

 ところが、三池工は決勝に残った。私の受け持ちの中九州代表大分県立津久見高はベスト8で終わったが、デスクに「決勝戦の取材応援に残れ」と言われ、決勝戦が終わる前に、優勝した瞬間の三池工の選手や応援席の様子を想像して、予定稿を書かされた。

 江戸の川柳に、

 「能因は見てきたような嘘をいい」

というのがある。

 能因は平安中期の三十六歌仙の一人だが、いったことのない福島の白河の関を詠んだという話をからかった川柳である。私も能因に倣ったようなものだが、そうしないと、号外に間に合わなかったのである。

 社会部から『週刊朝日』に異動し、1981年から『野村克也の目』を書くことになった。野村さんの目を通して見るプロ野球を書く企画で、自慢話をすれば、「野村スコープ」はこの企画から生まれたものである。

 企画の1年目、野村さんと夏の高校野球の取材にいった。後にプロ野球で活躍する工藤公康投手のカーブが話題になった年である。野村さんは、

 「工藤はカーブ・ピッチャーではないですよ。彼はストレートがいいから、カーブが生きるんです。ピッチャーの基本は、ストレートですよ」

と言っていた。

 野村さんの母校、京都府立峰山高校は日本海に面した町にあり、京都予選の1回戦ボーイだった。甲子園など、夢のまた夢である。野村さんは入場行進する高校球児を、まぶしそうな目をして見ていた。

 その翌年は「山びこ打線」の徳島代表、池田高校の蔦監督が注目を集めた。野村さんは蔦監督のノックを見て、

 「こんなに見事にノックを打ち分けられる人は、プロ野球にもいないですよ」

と言った。

 『週刊朝日』の副編集長になると、各県代表のチームや選手紹介を中心にした別冊『甲子園特集号』を担当した。その別冊を手に、代表校の甲子園練習を見にゆくと、小指のない人たちが別冊と赤鉛筆を手に、練習に見入っていた。どうやら、野球トバクの賭け率を決めるのに欠かせない資料になっているらしい。

 ――思い出の詰まった夏の高校野球は毎年、テレビで見ている。特に開会式は、選手宣誓や、朝日新聞社長の挨拶、文科大臣の祝辞に注目している。

 今年は台風で延期になり、8月11日に開幕したが、大会会長たる朝日新聞社長も文科大臣(代読)も高校野球連盟会長も、上手な祝辞とは言えなかった。心に残るような言葉、表現がなかったからである。

心に届かぬ朝日社長の言葉


 釈迦に説法かもしれないが、文章とは何かと言えば、その人にしか書けないことを書くものである。話すときも、その人にしか話せないことを話さなければ、聞く方は退屈する。この心がまえを司馬遼太郎さんは、

「話すときも書くときも、具体的でなければあかんな」

と言われた。

 多くの人が間違えるのはここである。話すときも書くときも、立派な内容にしようとして、抽象論や観念論になるきらいがある。使いなれていない言葉を使おうとする傾向がある。胸に手を当てれば、誰にも思い当たることがあるだろう。

 祝辞など“挨拶道”の宗家と言われたのは文化勲章作家、丸谷才一さんだが、丸谷さんに「挨拶道三部作」と呼ばれるものがある。『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』『あいさつは一仕事』(いずれも朝日文庫)の三冊である。

 祝辞にしろ中締めにしろ弔辞にしろ、人前で挨拶をするのは、厄介なことである。しかし、退屈な挨拶を聞かされる方も、負けず劣らず難儀なことである。三部作の書名には、そういう意味もある。

 三部作の愛読者の一人として言わせてもらえば、先にあげた文科大臣など三人の祝辞は短くて助かった。しかし、残念ながら通り一遍で、心に残るような言葉、表現がなかった。

 肩書の立派なお三方には、司馬さんの、

「話すときも書くときも具体的にな」

 という言葉を拳々服膺してもらいたい。

 お三方には、丸谷さんの三部作を読み、心に届く挨拶に必要な心がまえと、必要な準備を学んでもらいたい。

 参考までに、僭越ながら私ならどうしたか。

 朝日新聞の木村伊量社長は、岐阜で記者生活を始めたと聞く。高校野球を取材したときの失敗談や、心に残るエピソードがあるだろう。その話を入れれば、社長にしかできない祝辞になったはずである。むろん、聞いた人が、何の予備知識がなくてもわかるものにしなければならない。筆力に自信がなければ、スピーチ・ライター、ゴースト・ライターを見つけることである。心に届く祝辞をすれば、慰安婦報道で泥だらけになった朝日新聞の看板をきれいにできるかもしれない。

 下村博文・文科大臣は、家庭が経済的に恵まれなかったそうである。ならば、高校時代に放課後は何をしていたのか。グラウンドで練習に明け暮れる野球部を、どういう目で見ていたのか。体験を織りこめば、下村大臣にしか語れない祝辞になった。

 奥島孝康・高野連会長は、昨年より短かったところは評価できる。しかし、相変わらず中身がなかった。

 奥島氏は早大総長を務めた後、朝日新聞監査役になった。その時期、早大出身の朝日新聞社員に、

 「朝日新聞には経営がない」

 と言ったそうである。

 事実とすれば、由々しいことである。監査役であれば、そういう苦言、諫言は社長、役員に言うのが務めではないか。

 監査役の次に高野連会長に収まれば、監査役として言うべきことを言わず、朝日にゴマをすったのではないかと、痛くもない腹をさぐられる恐れがある。そうした噂を打ち消すためにも、心に残る祝辞が必要だった。

 奥島氏は高校時代、受験勉強を猛烈にしたはずである。そのとき、いちばんの敵は何であったのか? 敵がラジオ、テレビの高校野球中継だったとすれば、ウケることは間違いない。

 笑い者になるのは、退屈な挨拶をするからである。奥島氏は笑わせることと笑われることを誤解しているのではないか。笑い者になりたくなければ、聞く人を笑わせることである。

 作新学院の中村幸一郎主将の選手宣誓も、例年にくらべ短いところはよかった。しかし、

 「この場所に立てることを誇りに感じています」

 というところは「誇りに思います」と言う方がいい。「思う」と「感じる」の厳密な違いを説明するには、紙幅が足りない。国語の担任に聞いてもらいたい。