野々村直通(開星高校前野球部監督・教育評論家)

 2001年夏、開星高校は8年ぶり2度目の甲子園出場を決めた。もう、私の指導力では子供達を甲子園に連れて行ってはやれないという、諦めにも似た心境でいたところ、試合ごとに奇跡的な試合(ゲーム)を展開してくれた。なんと決勝戦は21対0という大勝であった。再び勝利監督として迎えてくれた選手たちに感謝したい。だが甲子園入りし、久し振りに抽選会場に足を踏み入れた私に新しい経験が待っていた。対戦相手が出揃うと監督もステージに招かれたのである。

 前回出場した大会(1993年)では、監督は客席に居ればよかったが、今回はステージ上で主将とともにプラカードの後ろに整列せねばならなかった。戸惑った私は壇上に上がるのをためらった。私は地味な半袖のスポーツシャツ姿だったからだ。見渡すと他校の監督は皆ネクタイを着用し、上着を着ている人もいる。7年の間にすっかりシステムが変わっていた。私は恥ずかしさと同時に「来年も必ずこの会場に来てステージ上で私らしさをアピールしたい」と誓った。

 翌年の夏、連続出場を果たした私は、優勝した瞬間から抽選会の服装に思いを馳せていた。その年、私は真っ白なダブルのスーツで颯爽とステージに上がった。裏地には自らが版画印刷した「胸もあらわな歌麿の浮世絵」が縫いつけてあった。民放のテレビ局がそれを見つけると取材を申し出たが、教育的配慮で断った(笑)。開星の選手達は誇らしく私の言動を見つめていた(と信じたい)。「教育者(監督)は常に生徒(選手)から羨望の眼差しで見られなければならない」という私の持論が表出されたシーンである。

高校野球抽選会、和服姿で出席した開星の野々村直通監督(中央)=2011年8月3日、大阪国際会議場(塚本健一撮影)
 その後、2006年~2011年の間に春夏6回の甲子園出場を数えたが、抽選会場にはいずれも私は着物姿で登場した。そのことはマスコミには格好の話題を提供した。だから高野連は、目立つ私がけぶたかったのだろう。2012年3月で私は定年退職し、監督からも身を引くと高野連は、抽選会規定の中に新たな項目を定めた。それは「責任教師、監督は白の半袖シャツまたは所属連盟のスタッフシャツ着用、選手は制服を着用してください」というものである。明らかに私の着物姿を意識したものと思われる。

 しかし、日本人が伝統的民族衣装に身を包み、厳粛なセレモニーに臨んで何が悪いというのか! カッターシャツにネクタイこそはアングロサクソン(西洋人)の服飾ではないか!! などと声高に叫べば、「やはり、野々村は屁理屈を言う変わり者」という評価を受けてしまう。ところが、最近のニュースで興味深いものがあった。経済産業省は、日本古来の「きもの文化」を見直し、奨励するために来年度から『きものの日』の制定を検討するというのである。その日は省内にも“きもの出勤”を勧め全国に呼びかけるという。各省にも呼びかけるが、手始めに文科省に呼びかけるとのことである。文科省傘下にある高野連は私の「着物姿」を疎外してきた訳だが、『きものの日』に向けてどんな言い訳をするのだろうか。

 事程左様(ことほどさよう)に、自らの組織の中で変革や異論を唱える輩は排除してきた高野連という体質について、紙面の都合上、残りは簡潔に述べてみる。

高野連は巨大な興行団体
 甲子園では入場料どころか酒もビールも売り歩く。高体連(こうたいれん)の大会で、代々木体育館や武道館でビールを売り歩いたら大問題である。高野連は「プロアマ規定」で未だにプロ野球とは厳しく一線を画している。その理由はプロ野球はお金がからむ営利目的の団体だからだという。アマチュアという仮面を被った金まみれの高野連がどの面さげて言うのか。高野連は、主催新聞社と業者が結託した巨大な興行団体である。

高野連は独善的権威主義団体
 野球部員の不祥事が発覚した時の例を考えてみる。当該校の方針は無視され、すべての判断と処罰は高野連に負託される。教育現場の独自性から見て、文科省でも教育委員会でもない一財団法人でしかない高野連という組織が、現場の最高責任者である学校長に処分を言い渡し、校長は平身低頭で有難くそれに従うのは滑稽と言わざるを得ない。学校のレベルの問題もあり、大会に参加するのか辞退するかは現場の最高責任者たる学校長が判断するのが妥当である。野球を通じて非行少年を立派な社会人にして世に送り出す使命も実績も数多く存在するのに、その都度、全体責任で出場辞退を迫られては本当の教育はできない。それとも品行方正な子どものみで野球をしろと言うのか! 権威主義的高野連の下では野球を通じて本物の教育はできない。

「特待生制度」を正しく位置づけられない高野連
第93回全国高校野球選手権 日大三に敗れた開星・野々村直通監督=2011年8月14日、甲子園球場(恵守乾撮影)
 数年前、特待生問題でマスコミや高野連が大騒ぎしたことがある。いかにもお金で選手を釣り上げるかの如くに報道された。「特待生制度」はほとんどの場合、私学が対象である。私学助成金のみに頼る私学は公立より授業料が高い。学業や技量に優れた生徒を公立並みにして入学してもらうのは当たり前の話である。なぜ公立は安いのか。税金が投入されているからである。私学の先生方も等しく納めている税金で公立は守られている。私学から見れば公立に通う生徒(選手)は全て税金が投入されている特待生である。公立と比べれば私学は不遇なのである。優能な子が私学に通うのに「特待制度」を利用するのは至極真っ当な話なのである。

事勿れ主義の高野連
 昨秋の四国大会に於いて、今治西高の監督が試合中に「気合を入れて下さい」と申し出た選手にビンタをした。直後、彼は逆転打を打ちチームを選抜へと導く。しかし、こともあろうにテレビ中継をしていたNHKはこの場面を放映し流した。匿名による抗議の電話が高野連に入り、体罰と判断した高野連の指導でこの名将は辞任した。なにかおかしくはないか!! 選手のミスを一方的に罰として叩いたのではない。選手と監督が勝利に向かって本気で「魂」のやりとりをしただけである。逆に感動を与えるシーンであったはずである。この時、事情聴取した高野連が、「今回は信頼関係にある指導者と選手の事象であり、暴力を背景としたいわゆる「体罰」とは呼べず、現場での厳粛な指導の一環であった」と毅然として発表すれば、より気高き教育現場が具現されるであろうにと思えば残念でならない。高野連の「事勿(ことなか)れ主義」を垣間見た思いである。

 色々な事例を述べたが、いずれにしろ高野連は「きれいごと」を並べたてる偽善組織と言わざるを得ない。高野連はマスコミに従属し、生温い社会風潮や似非(エセ)平等主義を唱える現代の教育的価値観へのポピュリズム(大衆迎合主義)でしかないと強く訴えたいと思う。