小田敏生(元近衛歩兵第一連隊第一中隊長)

 昭和20年の夏。運命の8月15日が近づきつつあった。陸軍省軍務課の畑中健二少佐を中心とする徹底抗戦派は戦争終結を告げる「玉音放送」を阻止しようと血眼になっていた。彼らは近衛連隊を動かし録音盤を探した。結局、録音盤をみつけることはできず、実力をもって放送を阻止しようと考えた。その実行部隊として近衛歩兵第一連隊第一中隊が選ばれ、ニセの命令が出された。以下は、当時、中隊長だった小田敏生氏の談話を編集部でまとめたものである。


 私は大正8年10月14日、広島県呉市で生まれました。呉中を卒業したあと、四国・新居浜の住友別子銅山に勤めました。ここに2年半はど勤務してから昭和15年1月、近衛歩兵第一連隊に入隊しました。5月に幹部候補生試験に合格し、盛岡の予備士官学校で教育を受け、16年12月1日に陸軍少尉に任官しました。以来、終戦まで近衛歩兵第一連隊に勤務することになったわけです。

 近衛歩兵第一連隊では、初年兵教育、下士官教育、更に幹部候補生教育などを務め、それから大隊副官になりました。終戦の年、昭和20年には、第一連隊第一大隊第一中隊長として私は部下237名を持ちました。8月10日に結婚し、目黒に所帯を持ったばかりでした。26歳でした。

 平素、戦争は絶対に負けるものではない。負けた場合、いままでの歴史から見ても日本民族は滅びる。たとえ物量には限りがあっても、精神力は無限大である。そして米英の物量にも限度がある。精神的な優位を示して、最後は日本が勝利を収めるといった精神訓話を聞いていたので、私も日夜、こういう話を部下にしていました。

 当時、正確な戦況は高級将校はともかく、われわれ下級将校には全くわかりませんでした。いずれは有利な形で戦争終結ができるのではないかという頼りない見通しのもとに、われわれは陛下をお守りするという光栄ある任務についていました。

 近衛歩兵第一連隊長は渡辺多粮大佐でした。将校集会所で昼食をとりながら、渡辺連隊長は楠正成が金剛山に籠城した話、千早城攻防の話をしました。ここでも物資より精神力が優位であるという話が中心でした。

 第一大隊長は久松秀雄少佐でした。第一大隊長の下には中隊長が6名おりました。毎晩のように久松少佐のもとへ食事に呼ばれて話をしました。当時、われわれは戦争に負けるなどとは、九分九厘、考えていなかった。若い将校の中には近衛師団だけでも決起して天皇を奉護して信州の松代にお移し奉る。そして最後の最後まで抗戦する、と主張する将校もいました。

 が、中隊長のなかには、近衛師団だけで決起することは賛成しかねる、という意見もありました。久松大隊長は、最後の決戦をわれわれに推し進めようという気持ちが非常にありました。大隊長には、徹底抗戦を主張する畑中健二少佐ら陸軍省の主戦派の意図が染み通っていたと思います。

「ただちに集合せよ」


 近衛連隊は田安門(東京都千代田区九段)、いまの北の丸公園にありました。しかし、敵の焼夷弾による爆撃で連隊の建物はほとんど焼けてしまいました。ここに集団駐屯していたのでは危険だというので、すでに各中隊ごとに分駐しました。

 私の中隊は、府立一中(現在の日比谷高校)、永田町小学校、国会議事堂そばの焼け跡などを利用して、各小隊ごとに分駐しておりました。

地下防空壕だった御文庫付属室の会議室北側の鉄扉=平成27年7月15日撮影、皇居・吹上御苑(宮内庁提供)
 昭和20年8月10日前後から、この周辺は自動車の出入りが目立ってふえてきました。真夜中、議事堂に向かって前照灯に黒幕を貼った自動車が入っていきます。われわれも薄々なにか重大なことが起きる気配を感じました。毎晩集まる大隊長との会食のときも、緊迫した状況を伝える断片的な情報がもたらされました。

 いざという場合には決戦という大隊長の話もだんだんと具体的になってきた8月14日の午後11時30分、私のもとに「第一中隊全員を引きつれて、ただちに連隊に集合せよ」という非常呼集がありました。当時、第一連隊と第二連隊が交代で宮城警備にあたっていました。14日は第二連隊の担当でわれわれは非番でした。

 集合場所は近衛連隊の営庭。現在の北の丸公園へ各中隊が集まりました。午前零時過ぎ、「放送局を占拠し、放送を阻止せよ」という大隊長命令がきました。ただし、それが玉音放送の阻止だということは、われわれ下級将校には知らされませんでした。

 ――出発は午前1時。将校先遣隊は下士官、兵と共に放送会館へ急行せよ。放送局にいる者を一人といえども外へ出すな。外部からいかなる者も入れてはならない。各部屋のカギを全部没収し、当直以下理事者全員を一室に監禁せよ。

無我夢中で走った


 こういう命令を受けて先遣隊は駆け足で出発しました。こういう場合、中隊長は先には行動しない。中隊には将校が3名いて、その将校に下士官、兵隊をつけて約10名ぐらいの先遣隊を編成して、それを先行させました。先遣隊が放送会館へ急行して、各部屋を封鎖する。そして放送を阻止する。

 先遣隊が出発してから30分後、われわれも全員武装して田村町の放送会館へ向かいました。隊を揃えて粛々と進むのではなく、われがちに行って名誉を奪うようなつもりで駆け足しました。全員、とても張り切っていました。真夜中、無我夢中で、お濠端を走りました。それは、いままでのなかで一番早い行軍でした。とにかく必死でした。

 あっという間に見えてきた放送会館は遮蔽幕がしてあり、明かりは漏れていませんでした。中に入ると、先遣隊は命令通りに占拠してくれていました。

 放送会館は入り口がホールになっていて、曲がり階段を上ったところが中二階になっていました。中二階に連絡してずっと各部屋がある。その中二階が上から下を見るのにいいからというので、そこに陣取り、各兵士にそれぞれの部屋を警備させました。

 しばらくして年配のNHK理事(あとで生田武夫常務理事とわかる)が中二階にいる私のところに来て「私どもは下村情報局総裁の下で全国放送、海外放送を行っています。従って下村総裁の命令がなければ放送を中止するわけにはいきません。ここは是非とも放送させて戴きたい」という。

 私は軍刀を床に突き立てて「われわれは近衛師団長の命令で来ている。近衛師団長の命令はすなわち天皇陛下の命令だ!」と一喝しました。理事はそのまま引き下がりました。

命令の百八十度転換


 夜が明ける15日午前4時半過ぎまでは平穏無事でおりました。けれども、夜がいくらか明け始めたころ、一少佐が参り、私に一言もいわないで、各部屋を巡回し始めました。たまたまそこへ久松大隊長がやってきました。二人は士官学校の同期でしょうか、早口で激論を交わしておりました。

 そこで私は、すでに近衛師団長は亡くなられたこと。近衛連隊は東部軍管区司令官の管轄に入ったという重大な話を直接耳にしました。

 この時点で久松大隊長より「当初の放送阻止を解除して、放送を援護するように」命令の変更を伝えられた。

 私は放送の内容が天皇陛下による戦争継続の宣言だと思っていました。まさか戦争終結のお言葉とは想像すらしていない。陛下が帝国陸海軍軍人および国民に最後の激励をされる。そう思い込んでいた。

《編集部注・近衛師団司令部で森師団長を殺害したのは畑中少佐らである。午前4時40分、阿南惟幾陸相自刃。陸軍首脳が相次いで消えていくなかで近衛師団の反乱を身を挺して収拾したのは、東部軍管区司令官の田中静壱大将であった。東部軍管区司令部はNHKとは目と鼻の先の第一生命ビルにあった》

 午前11時半ごろのことです。東部軍の高級参謀(あとで参謀長の高島少将とわかる)と肩章を吊るした高級副官の大佐、それに憲兵2名が側車(サイドカー)で放送会館にやって来ました。そして入り口で血相を変えて「中隊長はどこにいるか!」と大声で叫びました。中2階から階段を駆け足で降りると、「お前らはニセの命令によって行動した。よいか! 命令を伝える。これから天皇陛下の戦争終結の放送がある。その放送を援護しろ」という。

 私はすでに近衛師団長死亡の情報を知っていたので、この命令を疑う余地はなかった。

 戦争終結のご放送を擁護せよ、と聞いて、途端に最後まで抗戦するという気持ちがプッツリ切れたような感じになりました。

 放送を阻止せよという当初の命令は、近衛師団長の許可もなく参謀の古賀秀正少佐らが出した命令だったわけですが、そんな事情をわれわれが知るよしもありません。

 阻止から擁護へ、命令の百八十度転換は私にとっては表現できないほどの衝撃でした。

悲しい光景


 ご存じのように、それ以前に近衛第二連隊が皇居のなかで陛下の録音盤を探しています。近衛第二連隊の動きについてはほとんど知りませんでした。ただ、映画「日本の一番長い日」の一部に腹が立ちました。兵隊が各女官の部屋の入り口を銃で壊す場面があります。しかし、建物が壊されたところは一か所もありません。

 また、機関銃を御文庫の御座所に向けて据え付ける場面があります。これも違います。近衛兵は断じてこのようなことはいたしません。

 話を戻します。

 事態の急変に動転しましたが、すぐ気をとりなして、参謀長閣下の前で伝令を使って放送の準備をとったわけです。その間の時間というものは一時間に満たないと思います。

 正午の放送時間が近づきました。一階ホールの右手に参謀長、左手に副官が並び、私はそのあいだにはさまれるようにして直立不動の姿勢をとりました。二人の憲兵はその後ろに立ちました。お二人とも長身で、私の頭は肩までしかありません。

 私は肩をはさまれながら涙をこぼして終戦の勅語を聞きました。参謀長は高級副官と手を握り合いながら「これでいい。これでよかったんだ」といい、そのまま側車で司令部に帰りました。

 今度の戦争では神風が吹かなかったといわれています。たしかに戦争に負けたのですから、そうともいえます。

 しかし、いま振り返って私には東部軍の参謀長・高島少将がNHKに来られたこと自体が神風のように思えるのです。

 もし参謀長が来なかったらどうなったか。間一髪で陛下のお言葉を放送できた。それが、今日の日本の繁栄のまさに第一歩だったと私は思うのです。

 そのあと私どもは兵を撤収しました。午後2時半に集結して皇居前へ出て、二重橋前で捧銃(ささげつつ)をしました。

 隊に帰ってきましたら、こんどは「ただちに宮城警護にあたれ」という命令が出ました。私の中隊は皇居二重橋の櫓楼の中に駐屯することになりました。

 陛下の放送を聞いて、各地から続々と将兵が上京しつつあるということでした。なかには「このままでは大日本帝国は崩壊する。近衛連隊は何をしているんだ」と叫んでいる将兵もいるとか。空には飛行機が何機も飛んでいました。15日だったか、それ以降のことも混じっているのか、とにかく宮城前の情景は忘れられません。

 女学生が土下座している。モンぺに白足袋をはいた若い女性が松の木の下で死んでいる。憲兵が私の目の前で拳銃で自決する。どこかの参謀が刀を抜いて「まだ日本は負けていない」といいながら腹を切る。悲しい光景でした。

 水戸航空通信師団の将兵約四百名が水戸駅に集結、急行列車に分乗、「神州不滅」「徹底抗戦」を叫んで上野美術館を占拠したとの情報が入った時には全身が硬直したのを憶えています。

長い一日だった


 宮城警護につきながら、ふと結婚したばかりの妻を思いました。まだ一睡もしていません。私にとっては長い一日でしたが、結婚してまだ五日しか経っていない妻にとっても、長い一日だったと思います。

 結局、家に帰ったのは8月20日のことでした。

 毎年8月が近づくとマスコミに取り上げられる宮城事件が一部少壮将校の蛮行であり愚行であったと結論づけられているが、身命を賭して純粋に国を思う無念の感情を、事実で示した唯一の行動であったと思います。正に昭和の彰義隊であり、白虎隊であったと言えるのではなかろうか。近衛師団起てども利あらず、皇軍の相撃を防ぎ又右翼による内乱暴発を防止して、大命の下、整斉と干戈を収めることができたことは奇跡と言われています。

 亡き昭和天皇のご遺徳を偲び奉り終生昭和天皇崇敬の誠を捧げたいと思います。

 終わりに、経済大国といわれるまでに発展したわが国の今日を思う時、畑中さん、古賀さんをはじめ事件に関与して自決された方々と犠牲となられた森師団長に「心配された国体は護られました。その上日本は経済大国にまで発展しました。どうぞ安らかにお眠り下さい」と心からその冥福をお祈りするとともに、痛ましくも哀れな宮城事件の記事を目にされる時、彰義隊や白虎隊を弔う気持ちを思い起こし、一掬の涕を濺いでもらいたいと思います。

(初出 月刊『正論』平成3年9月号)

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